用いられている概念の整理と基礎付け問題

宮台ブログの記事(http://www.miyadai.com/index.php?itemid=430)に関連して、使われている概念を整理をしてみました。

何が人間的かは結局は合意手続き(正統性)の問題だが、何が人間かは全ての前提たる自明性(正当性)の問題だと。
複雑な社会における正当性の複数性を調停する正統性は、暗黙の自明性の共有の上にあったが、過剰流動性ゆえに自明性が揺らぐと、途端に何が自明かを巡る正当性が浮上してくる

正当性justifiability-正統性legitimacyと、何が人間的か(Quality of Life)-何が人間か(Sanctity of Life)*1と、が同じ対立なのは分かる。

分岐点は〈世界〉の根源的未規定性を〈社会〉的表象(の境界)に結合するか(後期ロマン派)否か(前期ロマン派)にある。監督はよく心得ていた。またもや悩ましい「境界線」問題だ。超越論的(前期ロマン派)と超越的(後期ロマン派)との境はいったい何か。表現の最前線も、思想の最前線も、同一の難問に頭を抱えている。それが辛うじて救いだ。

超越論的(前期ロマン派)-超越的(後期ロマン派)の対立は上の対立と一致してるのか。結局この文がよく理解できない。同一の難問?同一の境界線?これはハイデガーの用語で言うと次のどちらに当てはまるのだろう。

  1. 仮説1:存在-存在者
  2. 仮説2:現存在-存在

正当性-正統性の対立と同じなら仮説1、超越論的と超越的の言葉に頼るなら仮説2*2。でも、「〈世界〉の根源的未規定性を〈社会〉的表象に結合するか」の言葉に頼ると仮説1な感じもする(〈世界〉-〈社会〉の対立は存在-存在者の対立に一致)。
前期ハイデガー的に無理やり説明すれば、現存在も存在者であるに過ぎないが存在と関われる唯一の存在者だ(実存主義)、となろうか。これだと隠れ人間中心主義な気もするが。もうちょっと後期のハイデガーに近づければ、存在は存在者も現存在も同様に覆っているが言葉だけが存在を明らかにできる(神秘主義?)、となるかな。変わっているのは現存在(つまり人間)の位置。前期ハイデガーでは現存在の位置ははっきりしてる(存在と存在者の間)が、後期ハイデガーでは現存在の位置はあいまい。正当性-正統性の対立は前期ハイデガー的だ。でも後期のハイデガーはそんな対立は破棄したいみたいだ。つまり、前期ハイデガー-後期ハイデガーの対立は、後期ロマン派-前期ロマン派の対立って気がしてくる。後期ハイデガーの影響を受けたデリダが前期ロマン派的であることを考えると不自然な想定ではない。こう考えると、宮台真司の言ってることはおかしい。正当性-正統性の対立と前期ロマン派-後期ロマン派の対立は一致しそうにない。
私なりに解釈すると、正当性-正統性の対立の境界を認めるか否かで、前期ロマン派-後期ロマン派の対立が生じると考えるのが妥当だ。もちろん境界を認めないほうが前期ロマン派だ*3英米の反基礎付け主義も独仏の脱構築思想も、確固とした基礎を拒む点では同じだ*4。ここからが基礎であるという境界を認めることは現在の私たちにはもうできない(はず)。これこそが基礎だと表象することは原理的に出来ない。しかし、それは形而上学的な問題というよりも、共通の経験基盤*5がない(失われた?)という経験論的な問題でもある。
ここで疑問が湧く。近代社会に共通の経験基盤は本当に必要なのか。グローバル化が進んだ暁にはそんなことどうでもいいのではないか。いや、グローバル化が終焉することなどありえず常に過渡的たらざるを得ないのではないか。はっきりと言えるのは、確固とした基礎など初めからどこにもなかったのであり、あるとしても経験的誤謬による幻想にすぎない。しかしそんな命題に耐えられる人間はあまりいない*6のだから、やっぱり話は振り出しに戻る。嘘でも基礎は必要なのか?基礎などあいまいなまま(多くの犠牲を伴いながらも)*7誤魔化し誤魔化しやっていくしかないのか?それとも他にも道が…?

*1:直訳すると命の質と命の尊厳。英語の原語を見ると人間的か・人間かってすごい訳語だと分かる。というか明らかにハイデガー調?

*2:よく考えてみると無茶な対立だ

*3:いや、正確にはその境界の表象を認めるか否かで前期ロマン派-後期ロマン派の対立が生じると考えるのが妥当かもしれない。しかし、存在-存在者の対立では表象は存在者の側だ、とか考えるとまた分からなくなる。そもそも存在論と認識論の区別から始めた方がより妥当だと思うが、そこまでさかのぼると論に切りがないのでここでやめておく。ちなみに、前期ロマン派と後期ロマンの境界はシェリングの転回がふさわしい

*4:反基礎付け主義の帰結であるはずの進化論を新しい基礎にしようとする勘違いもいるのが困るが、それじゃカルスタの態度とたいして変わんない

*5:文字通りの共通の経験というよりむしろ、集合的沸騰やカリスマ的影響のことか。重要なのは共通だと思えること自体

*6:おそらく自分も耐えられてるとはいえない

*7:某サイトで(社会の)秩序を定義しようとして、社会に秩序があることを前提にしてそれを定義にしようとしているのを見て、それってトートロ−ジーじゃん定義としてダメダメじゃん、と思った。はっきり言えよ、自殺者が大量に出ようが失業者が絶えなかろうが犯罪が急増しようがどんな社会にも秩序があると言えるって、もちろんそれが秩序の定義なら。多かれ少なかれ社会なんてそんなもんだって考え方を受け入れる気ないだろ!