前回の評論記事について
宮台ブログにトラックバックした後に当該記事の多少の修正が行なわれたが、それによってこちらの記事を訂正する必要はなさそうだ。もし存在者-存在の区別が分かりにくいなら、意識-無意識の区別で考えてもらっても構わない(この用語は精神分析色が気になるが)。
後期ロマン派はマルクスやニーチェを含めて実存主義的でもあるが、と同時に英仏で既に始まっていた影響を受けて自然主義的でもある。つまり、「後期ロマン派=実存主義+自然主義」であると言える。構造主義以降の現在、単に実存主義的であることは困難になり、その一方で自然主義化の動きはどんどん進んでいる。後期ロマン派から学ぶべきことはますます増えてくることに変わりはない。ちなみに、映画『息子のまなざし』はテレビで見たが、宮台真司がいつも指摘する場面はそれほど重要な場面とはどうしても思えなかった。
最後に引用で終わり。一応言っておきますが、引用文の後半に感情移入しすぎないように!(そんなあなたは、だからいつまで経っても哲学が分からない)
ゲーテとヘーゲルは共々に「超越」を拒否し、人間が自己を失わずにいられるような世界を打ち建てることができたのに、その次に来る弟子たちは既にその中に安住することができなくなり、その師の平衡を単なる調和化の所産だと見誤った。──ゲーテの自然は中庸の中から生き、ヘーゲルの精神は媒介の中で動いたが、この中庸と媒介はマルクスとキルケゴールにおいて再び外面性と内面性の両極端に対置せられ、最後にニーチェは新しい企てによって近代性の無から古代を取りもどそうと欲し、その実験をしているうちに精神錯乱の闇に消え失せた。
K・レーヴィット「ヘーゲルからニーチェへⅠ」序論より