認知科学への身体や環境の二つの導入のされ方

UTCPワークショップ「身体の思考・感覚の論理」http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/tbls.html
身体や環境が認知科学に導入され始めたのは第二派の始まった1980年代以降だ。どうも日本の文系の学者は分析哲学関連はよくフォローするけれど、本来の認知科学はあまりフォローしない人が結構いる。しょうがないので私が分かる限りで説明します。
認知科学への身体や環境の導入にも強い導入と弱い導入とがある。例えばノーマンのアフォーダンス概念はギブソンのものとは違うことを本人が認めている。ノーマンのアフォーダンス概念はそれまでの認知科学で標準的だった情報処理アプローチとそれほどは矛盾していない(道具をどう使うかの処理がある)。しかし、ギブソン生態学的アプローチはそうではなかった。ノーマンのアフォーダンス概念は認知科学への身体や環境の弱い導入でしかない。同様にして、進化心理学文化心理学はそれまでの認知科学の情報処理アプローチとあまり矛盾していない身体や環境の弱い導入である。せいぜい進化や文化の考え方の情報処理アプローチへの導入に過ぎないとも言える。対して、ギブソン生態学的アプローチだのサッチマンらの状況論的アプローチは情報処理アプローチにかなり反する強い導入であり、哲学のおける力学系アプローチもこれに準ずる考え方だ。*1

現在の心の哲学・心の科学における標準的見解
①心とは、身体の内部、脳の内部という意味において、ある主体にとって内的なものである。(個体主義)
②心的活動は、脳が外界を表象する働きと、その表象を用いたさまざまな過程からなる。(表象主義)
身体化された心に関する三つのテーゼ
①知覚経験の本性に関する主張:われわれの知覚経験は身体と不可分の関係にある。
②心の拡張に関する主張:身体や環境は心的活動の可能性を拡張する。
③身体・環境システムに関する主張:心的活動は身体・環境システム全体の活動である。
「身体は心について何を教えてくれるのか」鈴木貴之(PDF)より

上記の身体化された心に関する三つのテーゼのうち、①②は弱い導入で、③は強い導入に当たる。それにしてもこの人は認知科学や心理学でどのように研究がされてきたのか知っているのだろうか。そんなの当たり前だとばかりに強い解釈を切り捨てているようにしか見えない。アフォーダンス万歳オートポーエーシス万歳みたいな知の欺瞞満載の日本の文系学者よりはマシとはいえ、なんか納得いかない。適切な研究方法があるなら始めから誰も苦労しない。ちなみに、上で説明した強い導入の研究法(生態学的アプローチや状況論的アプローチ)にはフィールドワークやビデオ映像分析のような質的分析が多い。
リンクに挙げたサイトにある資料を読むとつくづく、日本の心の哲学関連では染谷昌義は真っ当でいいなぁと思う。ここの資料は大したことないけど、染谷昌義の現象学論文はいい!(ちょっと難しいけど)ネット上にあるのでよかったら検索してください。…どうせなので、プログラムの発表要旨をまるまる引用してみる。

「生態心理学の哲学的含意と科学的含意」染谷昌義(UTCP)
これまで現象学者は、知覚経験が知覚主体の生きられた身体的運動性に依存した「意味」や「価値」によって組織化されていることを常に強調してきた。たとえば、歩行中のわたしが目の前に立ちはだかる「壁」に出会う。わたしはその物体を「壁」という意味で、あるいは「歩行を邪魔するもの」、「その向こう側へ行くことを通せんぼするもの」という価値で知覚する。こうした知覚の「意味」、行為の可能性として知覚される「価値」とは、今後どのような経験が可能であるか、どのような身体的行為が可能であるかの下絵を描く規則のようなものである (「地平」)。そしてわたしはこのような「意味 ( 連関 )」・「価値 ( 連関 )」において知覚するからこそ、壁をよけたり、回り道をするなどの一連の行為をするのだと。
よろしい。現象学者は知覚経験の本質を汲み取っている。しかし彼らは、記述的もしくは解釈学的ではない仕方で、こうした「知覚意味」を探究できる可能性を否定するのではないだろうか ( 少なくとも「知覚意味」の自然化を拒否するのではないだろうか )。というのも、現象学者は、意味や価値、人間行動についての「科学」は規範性や歴史性を機軸とする独自の方法と水準で考察されるべきだと考えるからである。他方、意味や価値や人間行動を自然主義的・物理主義的な仕方で解明しようとする認知科学者や心の哲学者たちは、「知覚意味」を、たとえば脳や身体の物質組織が持つ機能状態に還元しようとする。彼らの志向では、知覚認識についての問題を「意味」や「身体性」という概念に押しつけて、その科学的探究を棚上げする哲学的言説は胡散臭く思われるのである。
本発表では、生態心理学にとって論者が最も重要と考えている生態光学 (環境情報論) の内実を指摘し、知覚認識の問題の半分を存在論の問題として解決しようとする点に生態心理学独自の革新性を探る。その上で、先に提示した意味や価値についての両極端の立場に対し、それぞれ次のような批判を提起し、現象学とも認知科学とも異なる仕方で「知覚経験」、「知覚意味」を解明するオルタナティヴな「科学」の可能性を示したい。
1) 現象学者は「意味」を崇拝するのをやめよう。意味は環境内に実在し、かつ意味についての科学は可能である。それが不可能だと思われるのは、偏狭な自然科学観を持っているからである。
2) 物理主義的唯物論者は「意味」を物質過程に還元するのをやめよう。還元以外の仕方で意味の存在は確保することができる。それが不可能だと思われるのは、不完全な存在論 ( 物理学 ) に依拠しているからである。
身体の思考 感覚の論理(PDF)より

誤解されないように、さらに引用

もっともギブソンは間接知覚(何かに媒介された知覚、表象的な知覚)の存在を全否定してはいない。ただし彼によれば、間接知覚とは、絵画、彫刻、写真、レコード、望遠鏡、顕微鏡、言語といった道具を用いて、人為的に選択・操作された環境の情報を抽出することで成立する知覚である。こうした知覚のあり方は、社会性動物にとってむしろ必須である。正確に言えば、ギブソンは表象的な知覚を否定したのではなく、表象的な知覚を再定義し、知覚を表象的なものとそうでないものとに区別したのである。
生態心理学から環境形而上学へ 齋藤 暢人/染谷 昌義(PDF)の注37より

ちなみに、心の哲学にある分析哲学vs現象学の対立はあまり意味がない*2。そもそも得意とする領域が違う。思考・言語は分析哲学の方が得意だが、知覚・運動は現象学の方が得意だ。意識のハードプロブレムで有名なチャーマーズはゴリゴリの分析哲学者だから、その論が最終的に否定神学的(合理的に説明できない何かが残る)になるのは当然と言えば当然かもしれない。逆に言えば、そこまで議論を突き詰めたチャーマーズはやっぱりすごいとも言えるが。

*1:おそらくコネクショニズム自体もどちらかというと弱い解釈の方であり、ヴァレラらに従えば創発主義になる。ちなみに、自律型ロボットのサブサンプションは力学的なので強い解釈に入るだろう。どっちの立場をとるにせよ、認知科学への身体や環境の導入によって言語を扱うのは難しいことに変わりない。認知言語学はイメージを扱っているのであって、身体を直接扱ってはいない。また神経科学にも(ヴァレラ以降)似た動きはあるような。

*2:プラグマティズムの位置づけはここでは別問題にしておく