ハイデガー=三木清的な歴史観を擁護する

ハイデッガーとシュペングラー http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20061218#p1
該当の本を読んでないのに余計なお世話かもしれませんが、ここで言われていることはハイデガーの存在と存在者の対立を考えるとおかしい。そもそも「存在の歴史」が(同時に)複数ありうるとする点で形式的におかしい。それは、現在の論理学の法則が唯一のものではありえないからそんな法則に従う現在の論理学はダメってのと同じことであり、それこそが相対主義の考え方だ。言い換えれば、非ユークリッド幾何学がまだ発見されてもいないうちに一方的にユークリッド幾何学を否定するのと同じことだ。
東アジアの諸文化=諸「存在者の歴史」と「存在の歴史」=大東亜共栄圏と対にしないと話が変だ。ここは宮台風に「存在の歴史だと思ってたら存在者の歴史だった(だから失敗した)」みたいなアイロニーで捉えないと話が一貫しない。この点から考えると大東亜共栄圏への批判は正しい。しかし、当時は知りえなかった将来の破滅をネタにして彼らを批判するのは間違っている(歴史主義的誤謬?)。

もちろん私からするとそんな「存在の歴史」観自体が空虚なものにしかすぎないと思いますが。

こういう物言いは「存在の歴史」=公共的基準など原理的にありえないからいらない、という倫理的退廃しか招かない*1。「存在の歴史」=公共的基準の不可能性を理由にして批判するのはお話にならない。だいたい、(三木清は分からないにしても)ハイデガーはそうした不可能性を伴ったアイロニー(超越論性)を自覚していた可能性が高い。こういう点からすると、シュペングラーは文化相対主義だったかもしれないが、ハイデガーもそうであると言うのは理解としてレベルが低い。
ハイデガー(および三木清)は「存在の歴史」ということによって、目指されるべき新しい理想を提示すべしそしてその実現を目指すべし*2、ってことを言いたかったのではないか。だとしたらやっぱり相対主義ではない。リンク先の論者の言ってることは結果として、知識人はいかなる理想も示すべきでない、といった倫理的退廃を許すことになる(その理想が勘違いかどうかは別の話だ)。論者が経済学者であることを考えると、経済学者はあるべき資本主義像をいかなる形でも示すべきでない、と言い換えてもよい。ここでも具体的な経済政策とそのために参照すべき資本主義像*3との対がミソになる。経済学者はその場しのぎの経済政策を提出することで満足すべきってことなのか?それとも経済学者はより良い経済政策を提出するために経済理論を磨くべきなのだろうか?*4それとも経済理論ってのは単なる学者のおしゃべりに過ぎないのだろうか?

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*1:リンク先の書き方に合わせて公共性と公共的基準を分けてみました。なんらかの真理への模索(≒公共性)に対して参照基準としての「存在の歴史」ってことらしい。しかし、そもそも論者に存在者と存在の対が理解されていないのでここでの論自体がまた混乱している

*2:ここでリンク先の引用にある過去との関係などが問題になるが、それはややこしい哲学論議になるのでやらない

*3:相当に抽象的な資本主義像で構わない。経済統制すべしって考え方と勘違いしないように

*4:より正確にハイデガー的にはメタ理論的思考が問題になりそうだが…。分かる人はハイデガーとユクスキュルとの関係を参照