「論理哲学論考」の語りの枠組みを理解する
たまたま気が向いて、永井均「ウィトゲンシュタイン入門」を再読していたら、突然に「論理哲学論考」ってこう理解すればいいんじゃないかと思うようになった*1。正直言って「哲学探求」の方が個人的には好みで、ウィトゲンシュタインは前期が分からなければ後期を理解できない、とは思っていたものの実のところ「論理哲学論考」は解説書レベルの理解を超えることが出来なかった(翻訳はどっちも持ってて読んではいたけれど)。
「論理哲学論考」で言いたかったことってこうじゃないかと思った。現実を反映するように言葉を使うこと、つまり論理形式(=現実形式)に従うことによって初めて、日常生活でどう振舞うべきかという倫理形式が語られざることとして現われるのだと。分かりやすく言い換えれば、どのように語るかということ自体が倫理的な問題であり、それを守ることによってそれとは区別される意味での生活での振る舞いとしての倫理が問題になる、ということだ。
どのように語るかという論理形式と、日常生活でどのように振舞うべきかという倫理形式と、をはっきりと区別していたのが「論理哲学論考」ならば、「哲学探求」ではその二つは混ざり合うことになる*2。しかしその萌芽は「論理哲学論考」にも既にあったとも理解できる。つまり、論理形式に従うこと自体が一種の倫理なのであり、その点では論理形式と倫理形式とは表裏一体だったのだ。ただし、「論理哲学論考」で問題になっていたのは論理形式の方だけであり、倫理形式は(少なくとも表面的には)問題になっていない。しかし、そのように語る(話題を限定する)「論理哲学論考」そのものが倫理的振る舞いだとしたら、やっぱりウィトゲンシュタインのあまりの誠実さに驚くしかない。どのように語るべきかという論理形式としての倫理はこれで解決済みであり、あとはあなたがどのように生活を営むのかという本来の倫理だけが問題として残るのだ。これを理解できたら、あとは生活にも戻れ!
*1:こういう思い付きが出来たのもこの前の言い訳くさい失礼なコメントのおかげだ(もちろん皮肉だけど)。
*2:ウィトゲンシュタインがなぜ哲学に復帰したのかといった問題はまた別の問題にするしかない