心の哲学の説明を試しに書いてみました

ネット上で心の哲学について調べていて、日本のウィキペデアの記述のひどさに呆れ、そこからリンクされている日本語の論文の説明にまずさを感じた(認知科学人工知能は別でしょ…とか)ので、自分で心の哲学の説明を書く気になった(ネット上でデネットを消去主義とか言う無知もいたし、そりゃあクオリアは消去したかもしれないけどさ〜)。自信はないので、おかしなところがあったら指摘してください。とりあえず分析哲学系の何とか主義はかなり網羅させたつもり。
それにしても、認知科学と関連づけたら書きやすいな。他に意識やクオリアの問題もあるが、私にはあまり整理できてないのでやめておく(チャーマーズが哲学的な意識問題をまとめたとは思っているが…)。

心の哲学(暫定版)

心の哲学とは、心に関する様々な根底的疑問に答えようとする哲学の分野である。
心の哲学での主要な問題として心身問題が挙げられる。心身問題では心と身体とがお互いにどのような関係にあるかを問う(最近では身体の代わりに脳を持ってくることも多い)。心身問題に対する考え方には大きく分類して一元論と二元論とがある。心身二元論はフランスの哲学者デカルトが支持した説として有名であり、心は身体とは互いに独立しているとする考え方だ。それに対する心身一元論はスピノザ
スピノザの説明に困ったので中断)
行動主義には二つの考え方があり、心理学的行動主義(または方法論的行動主義)と哲学的行動主義(または論理的行動主義)とがある。共通する基本的な考え方は、心の内側を無理に想定せずに観察できる行動だけに注目することだ。しかしこの先は違う。ワトソンやスキナーらによる心理学的行動主義では、それまでの心理学で重視されてきた内観はあいまいだと否定して、観察できる事実から分かる条件付けによって心を解明できることが出来るとした(連合主義?)。このような考え方に対するチョムスキーの批判、そうした既存からの学習だけでは新しい事柄は出来ない、は有名である。これに対して、ライルら日常言語学派に代表される哲学的行動主義では、心に関する記述は行動に関する記述に関連づけてのみ意味を持つとする。「心がある」と「身体がある」では、「ある」の意味が全く違っているとする。心が身体と同じようにあるわけではない。例えば「雨が降ると信じる」とは「傘を持って外出する」や「洗濯物を取り込む」と言った観察可能な命題と関連付けて初めて意味を持つとする。哲学的行動主義が認知科学に影響を与えたのに比較して、入出力間の介在を一切許さない心理学的行動主義に対して認知科学は敵対的な立場を取ったことに注意しよう。
プレイスやスマートによって(心脳)同一説が提唱された。これは心の状態と脳の状態とにはきちんとした対応関係があるとする考え方だ。(心脳)同一説にも二つの考え方があり、タイプ同一説とトークン同一説とがある。タイプ同一説とは例えば痛み一般や赤さ一般のような一般化された心の状態に対して対応する脳の状態があるとする説である。トークン同一説とは、あの痛みやこの痛みなどの個々の心の状態に対して対応する脳の状態があるとする説だ。タイプ同一説に対しては、痛み一般に対して対応する脳の状態は複数ありうるとする批判があり、そこから機能主義が現われた。
認知科学がとる典型的な立場はむしろ機能主義である。パトナムやルイスに支持された機能主義とは、心には外界との関係において何かが起こっておりその結果何かしらの行動が表出されたりすると考えることだ。入力と出力だけを見てその中身は何でもいい。つまり、心には機能を果たすために何かしらが介在しているとしているが、それを脳や身体と同一視するのはとりあえずやめておく(関係があることは認めるが)。このとき心に何が起こっているかで少し意見が分かれる。主な立場は心的な論理計算が起こっているとする古典的計算主義(その特徴に注目すれば表象主義)であり、古典的人工知能やフォーダーの思考の言語仮説(または心語)はその代表である。ただし、デネットのような変形的な機能主義もあることに注意しとこう(心は志向性を持っていると解釈するので解釈主義と呼ばれる)。認知科学でも表象主義的な第一波に対する批判があり(ドレイファスの常識やサールの中国語の部屋による批判)、その後は認知科学に第二波(自然主義化)が訪れる。そこでの代表的な批判が、表象主義批判と内在主義批判である。
表象による計算と言う考え方をする表象主義を批判する源がコネクショニズムである。入力された情報が(モジュール内での)論理による計算ではなく、学習によって全体が刻々と変化するネットワークによって処理されているという考え方だ。コネクショニズムと古典的計算主義との大きな違いはデータの記憶と処理を分けないことだろう。そこからさらに進んだ説として消去主義の考え方(消去的唯物論とも呼ぶ)も生ずる。これは私たちが日常で用いる心に関する考え方、素朴心理学と呼ぶ、は間違っており、脳について正しい知識を持つことでそうした間違った素朴心理学は廃棄されるべきだとする考え方だ。「…を欲したのでそうした」とか「…と信じている」といった命題的態度(「…」という命題への態度なので命題的態度と呼ぶ)は素朴心理学である。こういった心に関する日常的な思考法は間違っているとしたのがチャーチランドらによる消去主義である。
それまでは心の内部で起こっていること(例えば計算)に注目されていたのだが、今度は外部の環境にも注目されるようになった。意味は頭の中だけで作られるとする内在主義に対して、外界との関係によって意味は生じるのだとする考え方が現われた。そこで出てきたのが外在主義や目的論的機能である。極端に入出力しか見ない表象的機能主義に見られる内在主義を批判した。外在主義を提唱したパトナムは、言葉の意味は自然的世界を参照しなければ分からないとした。その後バージは文化的世界への参照の重要性を指摘した。さらに、ミリカン(ドレツキも?)は意味は進化上の過程において生物が生存するための目的に依存していると考える目的論的機能を提唱した。どちらも意味は進化上の過程や文化内の経験に依存していると考える点で、外的環境を重視している。
あとはコネクショニズムやサブサンブション(自律型ロボット)に関連してヴァン・ゲルダーやアンディ・クラークなどによる力学系アプローチ(表象は必要ないとする説、過去の環境しか参照しないパトナム・バージ流の「消極的外在主義」に対して現在の環境を重視する「積極的外在主義」とも関連)もあるが、うまく説明できそうにないのでやめとく。

付録

知覚に関しては、ヘルムホルツの無意識的推論説が現在主流の知覚の解釈説の源になっており、感覚的原子を知覚的全体へと構築すると考えた。それを批判したのがゲシュタルト説である。また、運動に関してもミュラーの脳の鍵盤による中枢制御の考え方が現在主流の運動の命令説の源になっており、ベルンシュタインが運動の協調からこれを批判した。
また神経科学に関しては、モジュールvsコネクショニズムの対立から、機能の局在説vs全体説を経て、そして意識の脳研究における建設ブロックアプローチvs連合野アプローチへとつながる。建設ブロックアプローチはクリックやコッホによるNCCのような個々の具体的な意識に関連した部位を調べる方法であり、連合野アプローチはヴァレラ以降の意識が生じたときの脳内のニューロンの同期(全体的変化)を調べる方法だ。
ちなみに、進化に関してもモジュールvsコネクショニズム生成文法vs認知言語学の対立を介してピンカーvsトマセロの対立に行き着くが、こうした進化の話はまだ現在進行中でもあるのでまとめられない。
(補足):人の他者理解(心の理論)に関しては、理論説vsシュミレーション説の対立がある。他者の心を理解するための理論装置(モジュール)が備わっているとするのが理論説であり、他者を心に思い描くことによって他者の心を理解するのでありそのための特別の装置があるわけではないとするのがシュミレーション説だ(たぶん?)。

心の哲学への入門・お薦め文献

ティム・クレイン「心は機械でつくれるか」ASIN:4326153563
私の知ってる限りではこれが一番分かりやすくて面白い。少し値段が高いのが欠点だが、サールの入門書にピンと来なかった人には特にお薦め。ただし、意識の話とか脳の話とかは全くなくて、人工知能関連の話が主。テーマを絞っているからこその出来のよさともいえる。