セラーズが示唆するもう一つの道

アメリカの哲学者セラーズは知覚の構造と言語の構造との違いを強調する。言語の構造と知覚の構造とが同じであるとするのは、論理実証主義などに代表される古典的な説である。ウィトゲンシュタインが「哲学探究」の最初でアウグスティヌスを引用しながら批判している名づけ説、つまり個物があってそれに名前を付けると言う考え方、はそこから導かれる。セラーズがそれを批判しているのは確かだ。そこでセラーズ本人は知覚に関する現象学的な理論の必要性を訴えている。しかし、セラーズ論文に序文を寄せているローティ(およびローティに言及されているブランダム)はそれを否定しており、その結果として採用する説が言語ゲーム一元論であり、その点でローティは相対主義だと非難されることもある。だからといって、主流の進化心理学者みたいに極端な普遍主義(生得主義)に走るのもあまりに真反対すぎて納得いかない。セラーズが示唆したのは別の道ではないのか。
セラーズは認知言語学的なプロトタイプ理論を支持しろと言っているようにも思える。確かに、知覚の構造と言語の構造とは等しくない。名づけるための個物が前もってあるわけではない。むしろ名づけることによって個物が発見されるのだ。しかしだからといって、知覚の構造を捨て去って言語の構造だけを考慮しろといってるわけではない。言語のあり方を好き勝手に変更できるように作れると考えているのではない(この点でローティは考え違いをしている)。知覚の構造というのもあって、それに拘束されながらも可能な範囲で言語の構造は作られるのだ。プロトタイプ理論の言うように、好き勝手にどの色でも名づけられるのではなく、白黒が先などと名づけられる順序は知覚の構造によってある程度は決まっているのだ。この考え方は、言語によって認識が決定されるとする強いサピア=ウォーフ仮説ではなく、言語は認識をある方向に偏らせるに過ぎないとする弱いサピア=ウォーフ仮説に近い。これこそが、社会構築主義者のような相対主義でもなく、主流の進化心理学者のような普遍主義でもない、もう一つの道だ。というか、構造主義以降の流れを真面目に考えたらこれしかありえないと思う(知覚の構造と言語の構造との二重構造)。
こうした中間の道があるにもかかわらず、それを取る人は少ない。たいていは極端な道を選んでしまうようだ。それも人間の性なのか??