消去主義と解釈主義との違い、または政府転覆計画について

ときどきデネットを介して一緒くたにされてしまう消去主義と解釈主義との違いについて書こうと思うのだが、その話をする前に素朴心理学その他うんぬんを説明しなければならないという面倒くさい仕事が待っている。知識のない読者には悪いが、面倒なので大雑把な説明で勘弁願いたい(でなければこの記事自体を書く気がしない)。
素朴心理学というのは世間一般の人が信念や意図や欲求などを用いて人の行動を説明する説明方法のことであり、基本的に学術的な心理学とは関係がない。素朴心理学でも用いられる信念や意図などは「天狗がいると信じる」とか「酒を飲むのを欲する」などの命題的態度を形作るのが特徴だ(心の哲学の説明を試しに書いてみましたも参照。命題って何とか言う人は記号論理学を勉強してください)。
ここでそもそも素朴心理学が依拠する信念や意図や欲求などが存在するかが怪しまれる。直接に知覚も観察も出来ない信念や意図や欲求などといったものを認める必要があるのか。そんな概念を用いた心の説明法は単に便宜的に使っているに過ぎないのではないか。脳に関する科学的知識の発展によってもっと適切な説明法ができうるのではないのか。だったらそんな素朴心理学なんて破棄してしまえ、というのが消去主義(または消去的唯物論)の立場だ。もうちょっと分かりやすい例を出すと、自由意志など存在しないすべての行動は物理的に決定されているんだ、と言う考え方にも近い。しかし確認しておくと、消去主義がそうした還元主義と一緒だとはされていない。唯物論の考え方では一致してるのだが、消去主義では心の全てを物理言語で説明する還元主義とは異なる説明を求めているようだ(このあたりでコネクショニズムの話になるのだがそれは省略)。
解釈主義でも確かに、素朴心理学は間違っているという点では消去主義と一致している(そもそも認知科学者で素朴心理学を端的に信じている人はどれくらいいるだろうか)。だから、解釈主義者であるデネットを消去主義と呼ぶ人は後を絶たない(で、実際に間違ってはいない)。しかしそれでは、消去主義と解釈主義との違いが無視されてしまいがちだ。その違いを説明するのがこれからの目的だ。
消去主義と解釈主義との大きな違いは、前者が革命派なのに対して、後者は改革派だということだ。両者とも素朴心理学(現在の政府)は間違っていると考える点で一致している。そうした考え方に対して消去主義者は素朴心理学(現政府)なんて壊しちまえ、俺たちは全く新しい心の説明法(新政府)を作ってやると考えている。対して、解釈主義者は確かに素朴心理学(現政府)は間違っているが、だからといって素朴心理学(現政府)を壊したからといって今のところ代わりになる何かがあるわけではない。ならば、素朴心理学(現政府)を基盤にして修正していけば、そのうちに素朴心理学(現政府)とは全く違ってしまうのではと考えている。消去主義のラジカルさと比べると解釈主義は穏健だ(それでも十分にラジカルだが)。それに確かに、消去主義が素朴心理学に代わる新しい理論を提出できているかといわれると(脳科学などを参照したりしてがんばってはいるのは分かるが)今のところあやしい。実際に解釈主義(デネット)の方が生産的に見える。
ここで解釈主義の考え方を確認しておきたい。「心の哲学の説明を試しに書いてみました」で説明したように、心に志向性があると解釈すると考えるのは大筋で間違っていない(志向性に関する説明は省略)。ここはもう少し源に返ってみよう。解釈主義の考え方の源には哲学者ディヴィドソンの根源的解釈が関わる。詳しい説明はしないが、私たちは物事に対して何かしらの解釈(説明)を施しているのだが、そのときにその解釈の仕方全体がだいたいうまく成り立つような解釈法を選んでいるのだとする。ということは、素朴心理学も人の行動を理解するうえでうまく成立するような解釈法を選んだ結果だといえる(それこそ素朴心理学は何千年も前から変わらない)。それに対して、科学的成果を取り入れながらより妥当性の高い心の説明法を提出するのが解釈主義の目的だが、そのとき素朴心理学の概念の一部を借りながら説明方法を作り出す(これもディヴィドソンの理論から導ける考え方)。この点で解釈主義は既存の制度に頼りながら物事を進める改革派だと言える。

  • 参考サイト

素朴心理学についてはこちらも参照
認知科学現象学は何を寄与しうるか 柴田正良 http://web.kanazawa-u.ac.jp/~philos/phenomenologie.htm
消去主義や解釈主義(および根源的解釈)についてはこちらを参照
全体論解説 柴田正良 http://web.kanazawa-u.ac.jp/~philos/shibata-hol.htm