フーコー思想の見取り図を描いた、ドゥルーズにしては奇跡的に読みやすい穴場な著作
晩年フーコーは理解されない。晩年のフーコーに対して私的領域への閉じこもりと言う人もいる。しかし、フーコーは権力を分析することで私的領域など存在しないことを示したのではないのか。フーコーの行なった知の分析から、主体への回帰という評価へも同じ事が言える。一般になされている晩年フーコーへの評価のされ方はなんかおかしい(ちなみに生権力は後期の圏内)。それを考えると、ドゥルーズがこの著作で晩年のフーコーへのきちんとした理解を示していることは素晴らしい。
この著作の要所は後半の論考「トポロジー」にある。ここでドゥルーズは言表可能性と可視性というキーワードでフーコーの著作をうまく整理している。言表可能性から描かれた「言葉と物」、可視性から描かれた「監獄の誕生」。または、否定神学的な前期と郵便的な後期と書くと東浩紀の整理と変わらない。しかし、言表可能性と可視性との関係は排他的なものではない。
『知の考古学』において、可視的なものは、結局、非言説的なものとして、もはや否定的にしか指示されないこと、言説的なものは、それだけよけいに非言説的なものと言説的な関係をもっていること、このことに私たちは驚きはしないだろう。(p.108)
権力の拡散した中心は、ある意味で最初に存在する抵抗点をもつことなしには、存在しない。そして、権力は、権力にあらがう生を暴露し、誘発することなしには、生をその目標とすることもない。そして結局、外の力は絶えずダイアグラムを動揺させ、転倒させるのだ。しかし逆に、抵抗の横断的な関係は、たえず再地層化され、権力の結び目と出会い、結び目を作りさえする。(p.147-8)
地層化される知の世界と様々な戦略からなる権力の世界とは互いに互いを必要としており、そう逃れられるものではない。袋小路、そして褶曲による自己の世界へ*1。こうして、晩年のフーコーは知の軸でも権力の軸でもない新しい軸を見出したのだ。ハイデガー的なものでもニーチェ的なものでもない異なるフーコー(「快楽の活用」序文の注を参照すればおそらくベンヤミン的)。普通の人にとっては「存在と時間」*2や「悦ばしき知識」の理解に達するだけで精一杯なところをフーコーはさらに先に駒を進めた、「アンチ・キリスト」の世界へと。結果的に、表面的な読みやすさにも関わらず、晩年フーコーは理解者を選ぶエリート主義的著作である。
ちなみに、同じような整理はドゥルーズにも出来るだろう。それは読者の宿題だ*3。
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- 作者: ジルドゥルーズ,Gilles Deleuze,宇野邦一
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