アルチュセール理論への大雑把理解

認識論的切断とは、もともとバシュラールの科学哲学用語なのだが(バシュラール-アルチュセール-フーコーというフランス科学哲学の系譜がある)、マルクスは青年期とそれ以降では科学への認識方法が根本的に変化したということである。廣松渉風に言えば、疎外論から物象化論へと変化した。実質アルチュセールも同じ事を言っている、ただし科学理論の枠内で*1

「経済学批判序説」でマルクスが、科学的認識のどんな過程も、ある抽象的なもの、ある一般性からはじまり、現実の具体的なものからはじまるのではない、と言うとき、彼はイデオロギーと思弁的な抽象化のみを告発する態度と、換言すれば、イデオロギーの諸前提とじっさいに縁を切ったことを証言しているのだ。(「唯物弁証法について」p.327-8)

ようするに、具体例だけを集めてそこから抽象概念を引き出すことは出来ないということだ。こうしたフォイエルバッハ的な考え方をやめたことが重要である。科学哲学的に言えば、実証研究だけをいくら集めても何も科学的な理解は深まらない、必ずそれらの研究を解釈するための理論的な考え方が必要とされる、または科学は単なる帰納的な学問ではない(単純な帰納のためにこそ何かしらの抽象が前提とされる)。

「経済学批判序説」は、次のテーゼの長い論証にほかならない。単純なるものは、複合的な構造においてしかけっして実在しない。単純なカテゴリーという普遍的な実在は、けっして始源にはなくて、それは、長期にわたる過程のおわりに、きわめて分化した社会構造の産物としてのみ現われる。(「唯物弁証法について」p.338)

全体なしに部分への理解はありえない。アルチュセール理論の要点は、(社会に対する)科学的理解をするにはその全体を見てしなくてならないのであり、その全体を理解するには理論的な前提が必要なのだが、その理論で用いられる概念の意味は理論内で用いられる他の概念との関係によって定められるのだ(だから理論はその全体で理解しよう)。こうした概念間の関係こそが重層的決定であり、現実を反映してその理論には何かしらの矛盾が含まれている(結果として矛盾も重層的に決定されている)。この矛盾こそが(社会の)発展を可能にしている。
ちなみに、アルチュセールの理論は認識論(科学哲学)なので社会理論以外にも応用可能だ。

マルクスのために (平凡社ライブラリー)

マルクスのために (平凡社ライブラリー)

*1:あくまで大雑把な理解なのであっちこっち誤魔化してます、そこはご了承の程を