認知科学とか自由について雑感

<対談>東浩紀×下條信輔 将来は人間の潜在認知さえもコントロール可能になる http://blog.moura.jp/geetstate/2007/07/post_67af.html
本物の認知科学者と言える下條信輔による認知神経科学の見事な解説…の部分は当たり前なので置いておくとして、ここで言及するのは別の部分。人間の自由と意識の関係について語っている文脈から引用。

たとえば、マクドナルドではハンバーガーを買う人はコントロールされていた。それはわかった。でも、意識のレベルでは、コントロールされているからなんだとか、コントロールされているからあえてコントロールされてみようとか、コントロールされていることに抵抗しようとしているほうが実はコントロールされているんじゃないのかとか、その現実に対していくらでも解釈は可能なわけです。そして、そんな解釈を並べているあいだにも、着々とひとはマクドナルドにコントロールされていく。それが人間というものの本当なのではないかと思います。
<対談>東浩紀×下條信輔(第3回)の東浩紀の発言より

これを読んだとき、それって人間の自由と意識の関係一般の話じゃなくて、日本的アイロニーという文化的な問題じゃないか、と思った。実際に、もっと後で下條信輔が次のように発言。

前の意見と違うようだけど、その点は異議があります。投票に関して言えば、アメリカと日本では政治に関してのコミットメントの深さが決定的に違うんです。日本の投票ってスキャンダルが1個あると選挙結果がコロッと変わりますが、アメリカの場合は、共和党支持者が民主党を支持することはほぼありえない。
…(中略)…
ただ日本の場合はどうなるのでしょうね。けっこう世論は簡単に操作可能なような気もするし、おまけに自分たちがコントロールされているとわかっていても、かまわないと思うかもしれない。
<対談>東浩紀×下條信輔(最終回)の下條信輔の発言より

やっぱり、東浩紀の意見は日本に文化的に特化した問題だと思う。私の印象では、下條信輔は科学レベルで東浩紀は技術レベルで主に話をしているせいでズレがあるのだと思う。科学と技術は一応分けて考えた方がいいと思う。

自由があるのかないのか、それは人間一般にとってどれくらい重要なものなのか、その結論は、そういう無数の制約条件のヒエラルキーの中で、自由の観念がいったいどれぐらいの普遍性を持っているかということで決まると思っています。
<対談>東浩紀×下條信輔(最終回)の下條信輔の発言より

この考え方、つまり自由を様々な制約から考えるのは、認知科学的な考え方を見事に表わしていると思う(自由を直接調べられないので制約から攻める)。日本には意識などを直接調べられるかのように思っている人がいて頭が痛くなる(行動主義や機能主義を一から勉強してくれ)。ちなみに、私自身は(人間の)自由は社会的(文化的)過程から生ずるものだと思っている。

  • おまけ

コレクション認知科学 http://www.utp.or.jp/series/cognitive.html
結局、日本では認知革命は起こらなかった、それどころか意義の理解さえろくにされていない、ってところが現実だと思います。日本の言説のレベルを考えるとそうとしか思えない(というか、日本で認知革命の意義が理解されているなら私がこんなブログ書く必要もない)。