ポストモダン化したネオリベな世界に適応した正義感たち

グローバル化の進んだネオリベな世界において、社会問題を様々に分散させることによって力を持たせなくするのはどういうことを意味しているのか。ある人(集団や世代)が特定の社会問題ばかりを問題視していることは、様々な問題が並列状態になったネオリベな世界観を加速化させる役割しか果たさない。特定の社会問題が特別視される理由は(社会問題がむやみやたらに増えた)このポストモダン化した世界においては存在しない。批判対象を見つけては一所懸命に批判ばかりしていることは、実はこのネオリベな世界においては無力な相対主義でしかない。ポストモダン批判であった「知の欺瞞」以降の対応とはとても思えない。
内輪でしか通用しない現代思想キーワードを連呼したり、批判対象を見つけて批判すること(重箱の隅をつつくようなことも多い)が自己目的化されたり、仲間を見つけるためのネタとして社会批判ごっこを続けたり…、挙句の果てはお前はどうなんだと批判の応酬ごっこが続く。こうした位置取り合戦はネオリベな世界にぴったりと適応している証拠だ。ネオリベな世界にとっては、人々を分断させることが有利に働く。様々な人の持ってる問題が無関連でバラバラであると思わせる、究極的にはすべての問題は私的(脱社会的?)であると思わせることがネオリベな世界の目的だ。本当に重要なのは、単にある問題を訴えることではなく、様々な問題がいかにして関連し合っているかに気が付くことである。しかし現状はそれ以前だ。私たちは世の中にどのような問題があるかを理解しているとさえ言えない。
昔と違って、社会に出ることは視点を広げることには必ずしもつながらない。若い頃の視点が狭いのはしょうがないが、社会人になっても所属する職場や業界の視点を超えることは難しい。以前だったら、人々が共通で生きる生活世界との往復があったのでこうした心配はあまりなかったが、今や共通の生活世界が失われて他の人々がどう考えているかが(少なくとも実感としては)分からなくなっている。自分の所属する職場や業界への狭い適応を超えることが出来ず、結果としてますますネオリベな世界を増長させることになる。
ネオリベ化した世界では、極端な専門分化とポピュリズムが同時に起こる。一方において様々な研究が専門家にしか意味を持たなくなり、他方で市場とのつながりはますます強くなる(日本だと次々に何とか学だの何とか科学だのが現われ、ビジネスの学がはやる)。また、学術的な正当性があまりない単にもっともらしいだけの解説によるポピュリズム化も進む*1。この二つは完全にセットだ。ネオリベ的に分断された専門分化によって見えなくなった全体をポピュリズムがもっともらしく装う。ここでの全体とは自分の見たいものだけを見ているのみの都合のいい鏡像に過ぎない(日本の脳文化人はその典型)。物を考えるための基盤がどこにもない。
今や、地道に勉強してそれを応用できる人はほとんど存在しない。それ自体がネオリベな世界観が望んでいることだ。ネットにはまらせて物事を考えさせないのもネオリベな世界観の望みだ。ネット上にあるのはあくまで単なる情報であって、情報を扱うための考え方はネット上では身に付かない(もちろんこの文章も情報としてしか機能しない)。
該当者に限って自分がそうであることには気が付かない相対主義の罠。ある種の科学者を代表とする普遍主義を叫ぶ人たちの存在はこの世が相対主義な世界なことを確証しているに過ぎない*2ポストモダン化したネオリベな世界の地獄はまだ始まったばかりだ。

*1:あからさまに実名を出すと面倒なのでヒントだけ与えると、ここで何度か問題にしたあのクオリア本はもちろんのこと、経済学者に叩かれていたあの会計本とか、言語学者に叩かれていたあの日本語文法論とか、いろいろ

*2:現在においては、相対主義に対して普遍主義を提出することは、問題解決になるどころかむしろ問題を悪化させている。ある個人や集団の持つ相対主義が問題なのではなく、この世界(または人々の関係)そのものが相対主義的になっていることが問題なのだ。同じ相対主義でも問題となっているレベルが違っている