ガレス・エヴァンスの哲学を調べる、または純粋な心の哲学?

アメリカの分析哲学者であった故ガレス・エヴァンスは知覚が非概念的内容を持つことを提唱したことで有名なのは知っていたが、そのじつ日本ではめぼしい紹介があまりなくネット上でも日本語の情報があまりなくて困っていたところで、次のリンクの論文をやっと見つけた。
固有名の指示について―社会的規約、対象の同定、記述― 藤川 直也(PDF) http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/24337/1/%E8%97%A4%E5%B7%9D%E6%9C%80%E7%B5%82%E7%A8%BF.pdf
捉えがたき明晰さ-知覚内容の非概念性 信原幸弘(PDF) http://wwwsoc.nii.ac.jp/pssj/program/program_data/37/37ws/nobuhara-2.pdf
ローティが(デイヴィトソンと比べて)クワインの哲学を認識論の混じった不純な言語哲学と呼んでいたが、私には英米系の心の哲学の多くが純粋ではない心の哲学にしかだんだん見えなくなってきている。バージやパトナムの外在主義(双子宇宙論)は有名だが、真に名指しているのが何かを問う点では、これはどうしても認識論の混じった不純な心の哲学に見えて仕方がない(心的内容に関しては広い内容と狭い内容との区別がある)。ミリカンやデネットの哲学は、個人的には好きなのだが、心の哲学と生物の哲学とが微妙に混じりあった、混じり気のある心の哲学に思える。ただし、デネットでは心の哲学と生物の哲学とが水と油のように混じっていていくらかき混ぜてもきれいに混じらないのに対して、ミリカンは生物の哲学ばかりを一生懸命かき回して心の哲学がうまく生成されるのを期待している気がする。要するに、既存の進化論だけでは言語などの高次機能をうまく扱えないことの帰結だ。ちなみに、チャーチランド夫妻は心の哲学を脳の哲学で置き換えようとしているようだが、あまりうまくいっている気配はない。キムやチャーマーズとなると、解こうとしても無駄な偽の問題である(形而上学的な)心身問題を一生懸命に解こうとしている不毛な心の哲学にさえ見えてくる(とはいえ、哲学者の仕事としては妥当な領域ではあるのだが)。挙句の果ては、サールや(自然な実在論の)後期パトナムのような常識主義者もいるが、こうなると心の哲学への探求を放棄しているようにさえ見える(まあ、それはそれで妥当な立場ではある)。いちおう注意しておくと、別に純粋な心の哲学でないからといってその哲学の価値が低いわけでも下がるわけでもない。
そう考えると、ライルやセラーズやエヴァンスは現実的に問題をうまく解消しようとする純粋な心の哲学という気がしてくる。ただしよりにもよって(ライル以外は)、その割に(その価値が認められていながらも扱いにくさからか)他人からのマトモな言及が少ないのがそろっているのだが…(隠れた巨人?)。私が純粋な心の哲学と呼ぶ哲学者のいいところは、伝統的な哲学が扱ってきた偽の問題を見つけ出して別の方法を持ってきて解消してしまおうとするところだ。ライルの場合なら(完全に成功しているかは別にしても)デカルト的な心身二元論を廃棄しているし、セラーズは所与の神話を捨て去っているし、エヴァンスの場合は、上のリンクの解説を見る限りでは、(少なくとも純粋な形での)指示問題を消去している(私はラッセル流であれクリプキ流であれ、分析哲学のいまいち現実的ではない指示問題への接近にずっと違和感を感じてきた)。もしかしたら彼らこそが心の哲学を自然化した人たちなのかもしれない。
純粋な心の哲学にも問題がないわけではなく、知覚に関する問題はうまく解消されていない。オースティンや後期パトナムが常識主義的な立場に立つのはこの知覚問題のせいだ。ライルが知覚問題を必ずしもうまく扱えていないのはしょうがないにしても(現代の心の哲学創始者というだけで十分)、セラーズやエヴァンスの場合はもうちょっとややこしい。実際、セラーズを一般に紹介したローティは知覚問題ではセラーズと意見が一致しているとはいいがたいし(セラーズが示唆するもう一つの道を参照)、エヴァンスの遺作を編集したマクダウェルエヴァンスによる知覚の非概念的内容を所与の神話として批判している。知覚が概念と無関係であるかのように語ると、確かに所与の神話くさい。エヴァンスに関しては、道半ばで亡くなってしまったせいで、知覚の非概念的内容については詳しく述べられなかったからしょうがないところもある。しかし、所与の神話を非難した当のセラーズが知覚の微視的構造に関して示唆したのはどうだろうか。おそらく知覚の微視的構造には、所与の神話のような外的に与えられたものという含意はないのだろう(そう考えないと話が一貫しない)。エヴァンスは非概念的「内容」なんて言葉を使ったから (物象化された)所与の神話のように見えるが、もしかしたら「内容」なんて言葉にこだわらなければセラーズに近づけて考えることも可能かもしれない。(意識された)知覚は確かに概念化されてはいるけれど言語のように概念的なのではない、と言い換えると良いのかもしれない。
というか、エヴァンスの著書を読まなければ何を言ったってどうしようもないのだが、翻訳なんて出るとしてもいつのことになるか分からないし、かといって原書で読むなんてことは考えるだけで頭痛い(ただでさえ哲学書なのにましてや難解と言われているのに、私は英語があまり得意ではないので読むのはきつそうだ。外国語で読むことと自分で考えることの両立は困難)。