バーバラ・エーレンライク「捨てられるホワイトカラー」

中流から下流へと零落するアメリカのホワイトカラー

評価:現時点では希少な報告だが、それほどお薦めできるわけでもない

現代社会における下流の貧困問題や中流の過労問題についてはすでに報告や著作が多く出ている。しかし、中流ホワイトカラーの没落問題をきちんと扱っているのは現時点では少ないのが現状だ*1。確かに内容には不満も残るが*2、他に代わる著作のない今、貴重な資料であることに変わりがない。そして、これはアメリカでさえこれほどにひどい事態であることを知ることによって、現代社会の問題が実は世界的な問題でもあることに気が付く入り口でもあるのだ。
はっきり言ってタイトルには偽りがある。実際に読んでいても就業中のホワイトカラーは一切出てこず、出てくるのは就職活動中の(元?)ホワイトカラーばかりだ。これは著者の初めから意図したところではない。もともとは、最近目立つようになったという中流ホワイトカラーの過酷な状況を調べるために、著者自身が実際にホワイトカラーとなって雇われて職場に潜入し、その潜入報告を書くはずだった。しかし、この目論見は大失敗に終わる。そもそも、ホワイトカラーとして就職することさえできなかったのだから。失敗?いや、就職活動中に自分より有利な人物にも何人も出会っているというのだが、彼(女)らでさえホワイトカラーとしての仕事を見つけることができていないのだ。
経験や技能がないから雇われないのではない。今のアメリカでは経験や技能は重要ではないのだ。むしろ求められるのは外見や性格なのだ。もちろん外見や性格が求められること自体は問題ではない。そこで求められているのは積極的な性格なのだが、アメリカではもともと積極的な性格が求められる傾向はあったのだが、しかしその求められ方が著者(アメリカ人)でさえ疑問を感じるほどに異常な求められ方なのだ。異常に積極的な性格がそれ自体として求められており、それが具体的な業績と結びつく必要がなくなってしまっている。これがかつてプラグマティズムの国とも言われたアメリカの現状だ*3
ホワイトカラーの失業者はみな孤立している。そうなるかのように仕組まれているかのようだ。だんだんと著者は就職活動をめぐる事態(あやしげな性格テスト、教会まで巻き込んだ就職セミナーの隆盛、ネットワーキングという名の無茶なコネ作りの勧めなど)が失業者に物事を考えさせないためではないかと疑うようにさえなる。すべてはあなた個人の問題なのであって、社会の問題などではない。これだけのことをやっても全部自分だけの責任?。実は、私自身はアメリカには理念としての自由があるのだから格差があっても許されるのでは…と思っていたところもあったが、現実はそう割り切れるものではないようだ。
下流の貧困問題や中流の過労問題、そして中流から下流への没落問題。これらは全てつながっている。市場のグローバル化による仕事対価の低下、アウトソーシングによる仕事需要の減少、ネオリベラリズムによる責任の個人化。もちろん、日本なりアメリカなりの特異な事情も存在するし、それを否定してはならない。と同時に、問題をより広い視点で見る必要もある。それをマル○チュードのような内輪でしか通用しない現代思想用語で誤魔化すことなく語る必要がある。

捨てられるホワイトカラー―格差社会アメリカで仕事を探すということ

捨てられるホワイトカラー―格差社会アメリカで仕事を探すということ

*1:日本での話は、中流意識の崩壊か中流階級の崩壊かの区別が付きにくい。ちなみに、もしかしたら上流の倫理問題なるものもあるかもしれないが、そうと確信できるだけの準備が私の中にはまだない

*2:同じ著者の「ニッケル・アンド・ダイムド」と比べると相当に見劣りする

*3:日本にも同じ事情があったとしても、日本はまだ非近代的要素が満載の後進国だからなぁと思えば諦めもつくが、アメリカまでそうとなるとちょっと引く。ちなみに、外見や性格への重視を(希少な)就職への(適当な)選別装置と考える穿った社会学的)見方もできるが、あまり根拠はない