知識は経験の代わりにはならない

日本には役に立ちそうもないゴミのような応用学がはびこっている。そもそもの研究者が頭でっかちで話にならない場合を除いても、最大の原因は応用に必死で基礎への理解がないのが最大の原因だ。認知科学は基本が基礎科学だと私は思っているが、認知科学に関連した役立たずの応用研究も山のようにある。それらを含めて私は害悪だと感じる。

合理的経営術は複雑な現実では役に立たない

MBA風の合理的経営術を説いた本というのは未だに出版されていて、結構売れてたりする。MBA風の合理的経営術が役立たずであるという調査結果も既にあるのだが、ここは源から攻める。認知科学でも昔、強い人工知能が流行っていたころに合理的経営術(例えば意思決定法)がもてはやされたときがあって、哲学者のドレイファスがそれをぐちゃぐちゃに叩いてたことがある。合理的経営術とはようするに合理的な情報処理を用いた経営術のことで、様々なアルゴリズムによって問題解決を計ろうとする。ドレイファスはそれに対して、人は物事を具体的経験を通して(直観的に)判断するのであり、いちいち合理的に計算的な判断をしてるわけではないことを指摘している(熟達者研究も参照)。
そこまで話を急がなくても、これはフレーム問題の点から批判できる。現実ではどの情報(または変数)が重要かは前もって分からない。合理的経営術では情報の処理の仕方は分かっても、どの情報が重要かを判断する方法を与えてくれるわけではない。現実はどの情報が重要かを規範的に決められるほど単純ではない。また、たとえどの情報が重要か分かっても、どのアルゴリズムがその状況に相応しいかだって自明ではない。そもそも経営者に必要なのは(いつもと異なる)様々な場面で適切な判断をすることである。それができなければ経営対象を発展させることはできない。だいたい、いつも同じような判断法しか必要でないなら、経営はコンピュータに任せて人はいらない(現実に実用化されている手法もある)。人は経験から学ぶ者なのだ*1

企業文化を人為的に変えられるというのは誤った思い込みだ

企業文化の概念が流行っていたことが一時あった。これに注目するのは結構だが、その理解法はたいてい間違っている。たいてい企業文化を人為的に何とかしようとして経営に役立てようとするのだがこれが誤りだ。文化とは直接に左右できるものではない。文化を外側から左右できると思うのはカルスタなどが陥った誤りと同じだ。また、文化は背景であることによって価値を持つことを理解していない点では共同学習論と同じ罠にはまっている。文化とは人々の関係によって生じるのであって、実体としての文化があるわけではない。これは要するにカテゴリーミステイクであり、社会生物学における種の存在に関する議論と同じ論法が成り立つ。
経営者は役に立たない企業文化論とか読んでる暇があったら、経験的に労働者の状況を理解する方が先だ。企業文化を経営の役に立てようなんて考え方は、ろくでもない企業文化を作り上げることにしかならない。社員にやる気がないのはなぜかって、(人選ミスを除けば)やる気が出ない条件があるからにすぎない。条件としての企業文化を直接何とかできると考えるのはあまりに馬鹿らしい。経営者や上司の態度自体が企業文化の一部なのであって、文化を超越的に何とかとかできるとか考える傲慢は話にならない。文化が実体であるかのような勘違いは排除すべきだ。

アフォーダンスとか平気で言ってる俗流デザイン論はたいていゴミだ

はじめに言ってしまえば、デザインとは技術である限り経験的に学ぶのが鉄則であって、知識はせいぜい補助の役割しか果たさない。訳の分からないことを言っている本を読んで唸っているぐらいなら、できればデザイナーから直接学ぶか、せめて様々なデザインを見まくる方がマシだ(正統的周辺参加論も参照)。哲学者ライルの言うように、内容を知ることと方法を知ることは全く異なる(専門的には宣言的記憶と手続き記憶の違い)。どうすればいいかを口で言うことと実際にすることとでは全く異なる行為だ。口ばっかりうまくなっても、それで実際にうまくできるようになるわけではない。たとえそれがデザイナー本人の説明であっても必ずしも真に受ける必要もない。古代ギリシアの哲学者ソクラテスも言っているように、やっている本人が自分のやっていることに一番詳しいわけではない(メタ認知研究も参照)。バートレット以降の記憶研究などが示唆するように、本人による説明は後からの辻褄合わせである可能性が高い。手ずから教わっている場合ならまだしも、活字媒体で語られていることを真に受けても、語っている人の技術を真似できるわけではない。
だいたい、世間で語られるアフォーダンスはあまりに俗流な説明すぎて、もっともらしいだけで中身がないことが多い。ギブソンとノーマンとのアフォーダンス概念には違いがあるのにそれも掴めていなかったりする。まぁ、そもそもギブソンアフォーダンス概念は必ずしも辻褄が合ってるわけではない*2ので、いろいろな解釈が可能ではあるのだが。ノーマンのアフォーダンス概念はそこまでひどくはないが、これだって大したことは言ってない。マニュアルによって使い方を頭に詰め込ませるよりも、外のあるデザインによって使いやすくできると言っているだけだ。この程度のことも現実では考慮されていないことを考えるとこうした提言に価値はあるが、だからといってこうした知識だけで良いデザインをできるようになるわけではない。アフォーダンスとか適当に言ってれば何かの説明になるとか思い込んでいる勘違い野郎に付き合っても、何も得るところはない。

経験なき応用にも基礎なき応用にも価値はない。

無闇やったらに経験さえしてればいいという非合理主義も問題ありだが、知識によって何でもなんとかなると思い込む頭でっかちの馬鹿も困った者だ。知識を得るならせめて基礎からきちんと理解してくれればいいのに、応用に走るのに必死でそれもままならなかったりする。その結果、犬も食わない役立たずのゴミ話(研究)が跋扈することになる。今や基礎研究は軽視され、(ゴミのような)実学が横行する世の中になった。知識の限界を知らぬものに知識の適切な応用などできない*3

*1:もちろん経歴書の記述はここで言う経験のごく一部でしかない

*2:分かりやすい例を挙げれば、おいしさを視覚で直接知れるとか

*3:経験を軽視する現代社会への批判なるものも可能だが、そこまで行くと話に切りがない