hyさんのコメントに応答する

http://d.hatena.ne.jp/deepbluedragon/20060707/p1#c1210038824
まず始めに断っておきますが、私は(認知科学ならまだ自信が持てるが)システム論は詳しくないので以下で言ってることを真に受けすぎないでください*1
日本で2次観察が機能しないとは、つまり(西洋と比べると)思想がイデオロギーとしてそれ自体で強い力を持たないこと(所詮は観念や傍流)と関連があり*2、その源泉は江戸時代にまでさかのぼれるのではと思っています(ちなみに江戸時代は最近の私の興味の対象となっている)。日本でも中世には力を持っていた仏教が近世以降は力を失い、明治以降は位置が独特になってしまう(近代における宗教の相対化)。しかし現代でも宗教の必要性がなくなったのではなく、その機能が世俗化されたにすぎない(例えば就職活動での自己分析が宗教みたいだと言う学者がいる)。戦後体制の破綻は戦前体制の破綻とパターンが同じにも思えます。日本という国家なり文化なりが持つシステムの問題が根本にあると思えます。その基本構造は江戸時代にできたのではないかと考えていますが、まだ十分に調べても練られてもいないので、これ以上は言い様がありません。

システム論の考察

あるシステム状態から別のシステム状態への移行を考えたとき、良好な移行が既存のシステム内で十全な場合と既存のシステム内ではうまくいかない場合があります。戦後体制と言うシステムが機能しなくなっているのは確かだと思います。宮台真司の言う脱社会性とは既存のシステムからの脱却であり、彼(またはルーマン)の用いる「社会と世界」の概念もそれに関連しています。しかし、社会とは区別される世界なるものはそれ自体として存在する訳ではありません。社会との相対的な位置として世界を定められるにすぎない。宮台(ルーマン)の言う世界はハイデガーの本来性と同じで、それ自体として到達可能ではない(ちなみに文化に対する自然にも同じ事が言える)。社会とは世界に対してエントロピー(秩序の度合い)が相対的に高いので定常システム論が適用できる。技術とは世界(自然)を挑発して社会(文化)へと取り込む手段である。新しい技術は社会システムの外(世界)からの新たな入力を可能にすることで社会問題を解決するが、それは同時に新たな社会問題の出現にもつながる。経済システムの例で挙げると、既存の市場競争で勝ち残るのに必要なのが革新なのに対して新しい市場を開拓する発明が対応する。
基本的にシステムとは保守的に働くものであり、それを断ち切るのが淘汰です。生態環境が変化してもその有機体システムが対応できる限度内までは生存を許しますが、そうでなければ自然淘汰による調整が生じます。経済も同じで、経済環境の変化に対して企業システムは適応できるように組織を変化させるか淘汰によって倒産するかのどちらかが生じます。もし企業組織が適応的に変化するにしても、どう変化するかはその企業システムによって定まる。企業は経費削減することも人員を減らすことも給料を減らすことも脱税することも可能なことは任意にできる*3。企業システムの状態の移行は(均衡システム論の基礎として)エントロピーの低い方に流れる。つまり利害との関係で比較的楽な方に移行する*4。既存の企業には内側に多くの利害関係が生じていてシステムの大きな変更は困難なので、起業による新たな企業との競争の方が適切なときもある(均衡がより大きなシスムへ移行)。
システム内の変化を見る均衡システム論ともシステムと環境の関係を見る定常システム論とも異なるシステム論はありうるだろうか。多重に複数のシステムを見ることにヒントがあるかもしれない。(宮台真司の言う)多重所属性とスモールワールドのネットワークを結びつける*5とか、考えるといろいろありそうだが、ここから先は未知の領域なので、早々にスラスラと書けることではない。私のご神託(?)はここまでです。

*1:例えば、同じヴァレラでもオートポイエーシス論より身体化論の方が好きだし評価もしている

*2:逆に言うと読み書き算盤や手に職レベルの実用性が求められることでもある。その点ではある意味で健全、裏面で外圧でもなきゃ改革を遂行できないことでもある(改革の賛否は別問題)

*3:補足すると、選択肢からの決定は均衡システム論のレベルで生じるが、そもそもの選択範囲を定める前提は定常システム論のレベルで生ずる

*4:現在だと非正規雇用サービス残業の増大がそれに当たるかもしれないが、データを見ているわけではないので確信はできない

*5:ちなみに、私自身は多重所属性に期待をかけることには悲観的。多重所属は少数だからこそ価値を持つ。スモールワールドのネットワーク論も参照。また、多重所属エージェントが既存の(悪しき)システムを温存させる可能性さえある