功利主義とプラグマティズム

UtilityとPracticalの間(2・完)http://blog.goo.ne.jp/william1787/e/1cbe3a048dec2aead4228ca3ec086e2c
イギリスの功利主義が普遍的で、アメリカのプラグマティズムがローカルであるというのは一面で正しい。しかし、それはイギリスとアメリカの違いでは必ずしもなく、かつプラグマティズムに普遍的側面が全くないことを意味しているわけではない。
まず、功利主義プラグマティズムの関係はイギリス思想とアメリカ思想との関係と一致しているわけではない。なぜなら、プラグマティズムの祖パースが参照していたのが常識学派だからだ。アダム・スミスやトマス・リードが含まれる常識学派は別名スコットランド学派であり、イングランドスコットランドでいろいろと違いはあるのだが、少なくとも功利主義プラグマティズムの関係をイギリス思想とアメリカ思想の関係と同一視するのは早まった判断であることは分かる。むしろ、思想史的には常識学派が功利主義の直前であり、プラグマティズムの直前は(カントの影響を受けた)超絶主義であることを考えると、イギリスとアメリカの違いと言うよりも思想史的な自然な流れに過ぎないのではないかと言う気さえしてくる。思想なんて史的に直前の思想の影響を受けやすいものだ(ただし思想にその国の文化的な背景があることを否定するわけではない)。
次に、亡命したヤーコブソンがパースをソシュールより評価した*1とか西田幾多郎がウイリアム・ジェイムズの影響を受けたとか、そういう事情を考えるとプラグマティズムアメリカ以外で通用しないと考えるのは疑問だ。ただし、にもかかわららず功利主義が普遍的でプラグマティズムがローカルであるというのはある意味で正しい。功利主義が普遍的なのは利害を単純化した貧弱さに由来するのに対して、プラグマティズムのローカル性は現実を介した有用さである豊かさに由来する。だから、功利主義は端的に計算可能だがプラグマティズムはそうでもない(ネオ・プラグマティズム全体論を採ることにも注目せよ)。プラグマティズムは現実との接触の中でこそ意味を持つのであり、その点では確かにローカルな思想だが、それが直接にアメリカでしか通用しない思想であることを意味しはしない。ただし、同じプラグマティズムに分類されてはいるが、パース→ジェイムズ→デューイとこの順でアメリカ臭がだんだん強くなってくるのは確かではある(ちなみにプラグマティズムは全般的に好きな私だがデューイだけはどうしても好きになれない)。

*1:他にもエーコとかもパースへの評価は高い。これはパースの中世哲学への造詣の深さにも由来するのだが