かなり手入れ気味な批判的要約

http://www.miyadai.com/index.php?itemid=652より

日本のニート理解はご都合主義的で誤っている

日本ではニートが怠けなどの個人的要因に結び付けられているが、それは間違いである。もともとの英国のニート概念では、社会で自立できるための動機や資源がないことが問題になっていた。ニート問題は(個人のではなく)社会の問題である。新自由主義市民社会性が相互補完的であることに気づかないで、福祉国家と市場主義を対立させるだけの日本の議論はレベルが低い。今や小さな政府は必然的で避けられないが、だからといって自立を妨げる社会的再生産まで見過ごしてよい訳ではない。

非社会性とは何か

非社会性とは社会で必要とされる能力や人格を持たないことであり、自覚的に社会に反抗する反社会性とは区別される。社会性は社会の中で育つことで自然に身につくべきだが、最近はそうもいかなくなっている。社会性を身につけるとはフーコーの主体化と同じであり、それを期待できない(しない)現代社会は管理化を目指しているところがある。どのような社会性が求められるかは社会によって異なる。大人による若者批判はいつの時代にもあるものなので、それ自体が問題ではない。それは下位文化の問題であり、人格的要因とは異なる。(個人的要因にすぎない性格とは区別される)人格的要因とは、まっとうな社会生活を営めるような能力や感情を持っていることである*1。まっとうな社会生活を営めるようにするためにこそ公的関与の必要性がある*2
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=653より

〈システム〉が〈生活世界〉を侵食する?

サルトル実存主義へのフーコー構造主義による批判は、リベラル知識人の持つ自明性への批判でもある。主体(人間)を基準にして〈システム〉を批判することは、〈生活世界〉を基準にしての〈システム〉への批判と同様に問題がある。知識人が〈社会〉全体を知っている(と思える)ことは自明ではない。ハーバマスの〈システム〉概念とルーマンのシステム概念は異なる。〈システム〉と〈生活世界〉の区別そのものが社会システムによってもたらされるものである。理想(本質)を持ち出すサルトル疎外論に対して、疎外からの回復はありえないと物象化論はそれを批判する。今や(疎外論の裏返しにすぎない)自明性批判は大衆化され、凡庸なものになってしまった。

日本の戦後文化史

省略*3

*1:ここに理想的な社会性を想定する疎外論の匂いを感じるがここでは言及しない。西阪仰によるパーソンズ批判(isbn:476089263x)も参照

*2:人格的要因と市民社会性と公的関与との関係がよく分からなくてどことなく怪しい。個人主義共同体主義と結社主義や自立と依存の関係を考えてみよう

*3:いつもの宮台節なので要約しない。一応批判だけすると、戦前の扱いが雑で戦後の宮台真司の生きた時代の分析が詳しいことから分かるように、主観的な分析である印象も強い。論の結論だけ示すと、家族や親に期待しすぎるな→社会で包摂を目指せ!って言いたいのかもしれないがよく分からない。