ハイデガーにおける論理学と形而上学

理性を解明し規定することが正当に且つ必然的に《論理学》と呼ばれるかぎり、西洋的な《形而上学》は《論理学》であるとも言える。存在者たるかぎりの存在者の本質は、思惟の視圏のなかで決定されるのである。
ハイデガーニーチェ ヨーロッパのニヒリズムisbn:4582761844.78-9より

カテゴリー論と形而上学の関係

ハイデガーの大きな問題点は、科学と技術を安易に同一視しているのと同じように、論理学と形而上学をも一緒くたにしてしまうことだ。この場合、形而上学とはアリストテレス的なカテゴリー論のことであり、トマス・アクィナス経由で西洋哲学が受け継いでる思考法でもある。実際にハイデガーは(若き時分にブレンターノの論文で出会った)トマス・アクィナス的なアリストテレス理解への批判を出発にしているところがある*1。ところで、カテゴリー論とは何か。カテゴリー論とは物事をカテゴリーに分類する議論のことだ。例えば、空間と時間が物事の基本的なカテゴリーだ…と言ったタイプの話だ。問題は、ハイデガーがカテゴリー論こそを形而上学だとし、それを論理学と一致させていることだ。しかし、歴史的に考えて新プラトン主義の影響などを考慮すると、形而上学とはそもそも否定神学的な構造(いかなる肯定的言述をも逃れる対象として神を語る考え方)を持っていると考えるのが妥当に思える。時にハイデガーの哲学が否定神学的だと指摘されることを考えるとこれは皮肉なことだ。
カテゴリー論を論理学と一緒に扱うこと自体には納得できるところがある。大雑把に説明すると、伝統的な論理学は主語に対して述語を持つ(AはBだ)という構造があり、カテゴリー論はこうした論理学の項にどのような分類ができるかを考察しているところがある。例えば、「赤い」は性質や「北海道にいる」は場所と言った具合に。それ以外にも、命題の項になるもの同士の関係は類と種と呼ばれ、例えば「動物」と「犬」(「犬は動物である」)がこれに当たる。説明していると切りがないが、カテゴリー論は伝統的な論理学(形式論理学)を前提として議論されている。この点で、カテゴリー論は論理学を補う領域であり、カテゴリー論を論理学と一緒に扱うことには納得がいく。実際に、アリストテレスの論理学関係の議論を扱った著作集はオルガノンと呼ばれ、そのオルガノンの中にカテゴリー論と形式論理学を扱った分析論前書という著作が共に含まれている。オルガノンには他にも様々な著作が含まれるが、伝統的には重要なのは特にこの二つである。この伝統は近代哲学にも受け継がれており、例えばカントのカテゴリー表もこの系譜にあると考えてよい。そして、ハイデガーは西洋の伝統的な哲学の全体にこの思考法が含まれているとして、それを批判している*2。しかし、ここではハイデガー形而上学批判の詳細には近寄ることはしない。

ハイデガーの各種批判への考察

しかし、そもそもカテゴリー論だけを指して形而上学であるとして論理学と一緒にしてしまう点でハイデガーは偏っているのではないだろうか。(オッカムを待つまでもなく)中世スコラ哲学においても論理学と形而上学はとりあえず分離していたはずなのに、それはないだろうと。ましてやオッカムの唯名論によって論理学と形而上学は別々にぶった切られて、宗教改革や科学革命および近代哲学の形成へと続いているというのにだ。デカルトやカントにおいても数学や論理学はあくまで思索のための道具であり、形而上学そのものとは異なる(少なくともカテゴリー論の枠内を超えている)*3。よって、形而上学を矮小化した上で批判しているのだから、その議論自体が否定神学的と言う意味で形而上学に陥っていたとしてもおかしくない(だから形而上学批判そのものが形而上学なのは矛盾じゃない!)。だから、日本で安易に形而上学批判とか言ってるやつを見るとイライラしてしまう。じゃあ言わせてもらうが、そもそもいかなるカテゴリーもなしに済ませられる人がこの世にいるとでも言うのか。哲学が言葉による思索である限りいかなるカテゴリーをも避けることなどできやしない*4。いかなるカテゴリーをも越えようとする点で、そもそもにおいてハイデガーの言うところの形而上学批判は無茶なのだ。
ハイデガーの科学技術批判にも同じ事は言える。スコラ哲学の論理的思弁から離脱し、実験や観察という経験的な方法を手に入れたのが科学ではないのか。この場合、決定論的な機械論とは科学にとってありうる形而上学的な選択肢の一つに過ぎない。科学の持つ方法論的な還元は理論レベルの機械論とは区別しなければならない。科学技術によって世界のすべてが既知化される点への批判は正しいが、それでは科学そのものへの批判としては不十分だ。科学は経験的に反駁不可能な神学ではない。科学には(理論とは別に)経験的な方法があるのにそれを無視している。そういえばハイデガーはイギリス経験論を一顧だにしていないことは示唆的だ。ハイデガーはイギリス哲学に漂う凡庸さが嫌いなようだ。しかし、深遠さへの没入はハイデガーの批判する凡庸さへの没入と比べても問題がある点では遜色がないハイデガーに見られる深遠さへの没入はそれ自体が危険だ。この傾向は(ハイデガーの影響を受けた)デリダを論ずる者によく見られる*5脱構築できない正義とは実践の中にこそ体現されるのであり、それについてのもっともらしい語りの中にあるのではない*6。知識をそれ自体で悪しく見るのは単なる非合理主義でしかない(問題は知識と共に何ができるかの方だ)。ハイデガーの場合は当時の状況を考えれば仕方ないとはいえ、未だにハイデガーの科学技術批判を素直に真に受けてる人を見るとうんざりしてしまう。だいたい科学技術の恩恵を受けて豊かな暮らしを送っていながらそれを単に非難するだけなんて自己矛盾もいいところだ(異端気取り!)。自分で考えない奴は本当に無責任だ。

おわりに

ハイデガー理解なき現代思想論が下らないように、デカルト以降の近代哲学への基本的な理解なきハイデガー論もどうしようもない(ハイデガーによる批判は近代哲学批判としてならば成立しているところがある)。日本はそもそも西洋的な伝統とは異なるのであり、それも分からずに西洋的な近代批判をそのまま繰り返すやつは馬鹿にしか思えない。だいたい、日本で近代批判とか言っている奴はたいてい教養なんてろくに持ってない(むしろ教養があったらそんなこと安易に言えないはず)。所詮、西洋と比べれば日本は今でも十分に(古代ローマ的な)異教の国(オカルト流行り!)であり近代批判なんておこがましい。近代批判をするならせめて近代を理解してからにしよう。

*1:ハイデガー的な存在論への批判で典型的に間抜けなのは、存在は多義的であると指摘することだ。おいおい、それって当のハイデガー自身が批判している議論だろう?

*2:ハイデガー批判として可能世界論を持ち出す論者もいるが、これは勘違いだ。想定している可能世界そのものが想像できる(または思索できる)という枠内で行なわれているに過ぎない

*3:ただしこのことを考慮に入れても、ハイデガーの近代哲学批判は成り立つ。しかし、それが形而上学批判としてどこまで一般化できるかは別の問題だ

*4:哲学において主知的か主意的かは相対的な違いでしかなく、だから神秘主義に逃げ出す手がある。しかし、一番決定的な脱出法は哲学から去る事だ。芸術でも宗教でも政治でも他に有意義な領域はいくらでもある。逆に言えば、どの領域であろうと固有の限界は初めからあるにすぎない。でも考えてみればそんなことは当たり前だ

*5:(特に後期の)デリダによる否定神学批判はその理解が浅いせいで不毛なのだが、それについてここでは論じない

*6:その点では芸術に向かうハイデガーは事情をよく分かっていた。デリダに関してはとりあえず保留にしておくが、個人的にはハイデガーの域を超えているとは思えない