ベンヤミンのアレゴリー論への前哨

シンボルとアレゴリーとメタファーとアナロジーの違いは分かりにくい。アレゴリーは比喩と訳されることもあるが、それだとメタファーと区別がつかなくなる。レトリック(修辞)としてのメタファー(比喩)とは区別しないとしょうがない。認知科学ではメタファー(比喩)とアナロジー(類推)はセットで扱われる。つまり二つの事柄の持つ性質を比較対照する点で共通点を持つ。ただし、アナロジーでは性質の対応が明示に行なわれるのに対して、メタファーでは性質の対応は暗黙のうちに行なわれる(太陽系と原子構造、王様の勇敢さとライオンの勇敢さ)。しかしアレゴリーを比喩とするのは(一部を言い当ててはいるが)問題がある。
シンボル(象徴)の典型例は言葉である。言葉は別の何かを表している。これに対して、アレゴリー(寓意)は抽象的な何かを表すとすることがあるが、これだと問題が生じる。「鳩は平和の象徴だ」と言い方をするが、平和は十分に抽象的だがシンボルである。抽象性は重要ではない。ベンヤミンはエンブレム(紋章)をアレゴリーの例として挙げている。しかし、これも注意が必要だ。もしエンブレムが日本の家紋のようなものだとしたら、それはエンブレムがある一家を表しているに過ぎない。これではシンボルと同じだ。しかしエンブレムの本質は違う。エンブレムに描かれている動物(例えばライオン)が一族の何か(例えば勇敢さ)を表している。いや、むしろ抽象的な何かがエンブレムによって代表されていると考える方がよい。
アレゴリーとは見なしの行為である。何かを表している点ではシンボルと似ている。物事の性質に注目する点ではメタファーに似ている。メタファーでは全く異なる事柄が共通の性質によって結び付けられる(例えば「王様はライオンのように勇敢だ」は「王様→勇敢さ←ライオン」)。アレゴリーに一番近いのは隠喩(例えば「王様はライオンだ」)だが、それとも違う。アレゴリーはこのようには使われない。あからさまに異なる事柄を結びつけることはアレゴリーでは必要ではない。むしろ換喩(例えば「ハゲが怒った」)や提喩(例えば「人はパンのみに生きるにあらず」)こそがアレゴリーに近い。ただし、ハゲがある人物だったりパンが食べ物全体だったりするように具体的なものを表すのではない。抽象的なものを表すにしても、シンボルのように規範的に何かを表すのではないし、メタファーのように比喩の表現として任意の事柄を選べるわけでもない。
アレゴリーは寓話と訳されることもあるが、実際には寓話の持つ修辞的な技法がアレゴリー(寓意)であるといった方が正確だ。ある寓話(例えばイソップ寓話)にライオンとネズミが登場したら、おそらくライオンは強きものでネズミは弱きものを意味しているだろう。シンボルは(曖昧さを除けば)一義的に何かを意味するのが基本だ(せいぜい複数の意味から選択されるだけだ)。メタファーは一見、二義的(ライオンか勇敢か)にも見えるがそれは擬似的なものでしかない。王様がライオンそのものだと言いたいわけではなくて、王様は(どのように)勇敢であるかを示したいのが基本である。それに対して、アレゴリーはある対象に基本的に二義(以上)が同時に要求される。寓話では登場人物は(字義通りには)ライオンを意味すると同時に(寓意的に)強きものを意味する。ベンヤミンは商品がアレゴリーである(多義を同時に持つ)と言いたいと考えるのが自然だろう。