言語の文脈的意味を考えるつぶやき

  • まとまりがなくて自信がない文章だけど面倒なので出しちゃう

言語行為論の哲学的貢献は、言語は記述に関係すべきという(道徳的説教と変わらない)哲学の傲慢を批判したことであり、その延長で言語と現実との関係はそれに関与する人間によってこそなされるとする主張だ。言語と現実との関係にも二つあって、オースティンが提示したのは言葉の記述役割を相対化する語用論的関係であって、文脈主義による意味論的関係とは分けないといけない。ところで、言語行為論は論理実証主義との対抗関係で成立しているが、言語行為論的な批判をそのまま日本に持ってきて主張してもむなしいところがある。つまり、日本では逆に言語と現実との関係が無責任であることの方が問題なのだ。言語行為論の普遍的意義は(歴史的意義とは別に)認めるべきだが、いい加減に特殊な文脈で意義を持つ輸入品をそのまま日本で使おうとするような愚はやめてほしいと思う(日本には記述至上主義など初めからないのよ)。
言語哲学周辺には語用論帝国主義みたいなのがいるが、これは本気で受け取ると人間の言語と諸動物の偽言語的行為との違いがなくなってしまう。つまり、語用論的な効果がすべてだとしたら、文法はどうでもよくて意味は単なる効果に還元されてしまう。蟻の出す科学物質も蜂のダンスもサルの叫び声も、どれも人間の言語と端的に区別がつかなくなる。だいたい語用論帝国主義を本気でとると、生成文法形式意味論どころか認知言語学でさえ否定されてしまう。明らかに無茶だ。必要なのはその都度の語用論的な相対化であって、文法や意味を否定することではない。文脈的意味と語用論的効果の関係はもっと突き詰めて考える必要がある。もうひとつの争点である意味の文脈主義の問題もあるが、こっちはもうちょっとややこしい。
意味の文脈主義の問題というのはかなり根本的な問題だ。そもそも意味の同一性なるものは存在するのか。意味とはその都度の文脈に依存しているのであって、あらかじめの意味があるではないのか。グライス流の語用論の問題として指摘されるのが、意味の記述的意味をあらかじめ前提として、そこからの逸脱として含意を想定していることだ。(関連性理論を含む)グライス流の語用論は弱い文脈主義だが、強い文脈主義者とされるCharles Travisからすると、これでさえカルナップと同じく(あらかじめの)意味の同一性を求める悪しき形而上学ということになる。しかし、文脈的な意味というのも曖昧な概念だ。もし文脈によって意味が定まると文字通りに受け取るとデリダ流の脱構築の魔の手にかかる。文脈の同一性なるものはそもそも存在しないし、それどころか私が発した言葉でさえも口と耳との時間的な差によって異なるものになってしまう。最も極端な文脈主義(?)の立場に立つと、そもそも意味自体が存在しなくなる。ここまで考えていると不毛観も漂うが。
とはいえ、強い文脈主義によるあらかじめの意味の同一性(または古典的な真理条件)への批判には退けにくいところがある。これは単なる多義性では解決にならない。なぜなら、文脈に合わせて辞書内の複数の意味から選び取るという想定は、あらかじめの意味の同一性を想定していることと同じだからである。せいぜい選択された意味を文脈に合わせて修正していることぐらいになるが、これでは強い文脈主義者の餌食にしかならない。強い文脈主義とはあらかじめの意味を一切想定せずに、意味を具体的な文脈ごとに想定するだけである。強い文脈主義は意味の外在主義や目的論的機能をも批判することになりうる。外在主義や目的論的機能は意味を特定するには(過去の)環境を参照する必要があるという議論だが、このとき共同体における意味や生物種におけ意味が環境に対して参照されることになる。しかし、共同体や生物種を想定することは、共同体や生物種にとっての前もっての意味の塊を想定することに似る。だが強い文脈主義はそうした前もっての意味の塊そのものを批判する試みであり、環境を参照する点では似ていても考え方が全く異なる。むしろ強い文脈主義はこのような消極的な外在主義によりも能動的な外在主義と呼ばれるものに近い(「心の哲学に関する説明」も参照)。
しかし、そもそも強い文脈主義とは理解可能なことなのだろうか。共通の理解や前提なるものを批判する点で強い文脈主義は正しい。同じような振る舞いや帰結をもたらすことは共通の基盤があることの証明にはならない。同じ振る舞いや帰結をもたらすための経路は複数ありうるのであり、どの経路をたどったかを外面的な言動から知ることはできないし、ましてや経路の前提となる地図を知ることなど出来るわけもない(知識の全体論も参照)。しかし、強い文脈主義は経路や地図という比喩に含まれる内在主義的な考え方まで否定しているようにさえ見える。強い文脈主義者は言葉の意味がその場その場の文脈に依存する例を挙げることがよくあるのだが、逆に言うとそれ以上の議論はあまりしてくれない。個人に内在するものと個人間の関係によって生ずるものと周りにある環境との関わりとはどのように関連しているのだろうか。環境が大事だとか文脈が大切だと言った掛け声だけでは当たり前すぎてそれだけではあまり意義がない。

  • 書くべき続編

可能世界意味論や状況意味論やラッセルの原理など話題にすべきことは多いが、面倒なので多分やらない。ただ、意味論の哲学的議論というのはいろいろあるが、語用論の哲学的議論というのはあまり盛んではない気がするのは私の気のせいだろうか(確かにしにくい話だと思う。例による応戦以外では、私にはゲーム理論的な枠組みを使うことぐらいしか思いつかない)。
−参照リンク
Herman Cappelen
http://folk.uio.no/hermanc/
Charles Travis
http://www.kcl.ac.uk/schools/humanities/depts/philosophy/people/academic/travisc/