翻訳されたマクダウェル「心と世界」の解説について(または二つの異なるrealism)

マクダウェルの主著である「心と世界」の日本語訳がやっと出版され、翻訳の出来も良好で喜ばしい限りである。この翻訳には神崎繁による力のこもった解説も付いていてとても参考になるのだが、残念なことに突っ込みどころのあるところが所々見られる。その中で最も目立つ二つのrealism(実在論)の混同について指摘しておきたい。
この二つの実在論の混同はフレーゲやダメットに言及した議論の中に見られる。『言語哲学の基礎を築いたフレーゲを高く評価し、その再構成について余人を寄せつけない仕事をしたダメットが、まさにフレーゲの「実在論」を表面から批判して、「反実在論」の旗幟を鮮明にしたのである』(p.374から引用)とあるが、前者の「実在論」と後者の「反実在論」では同じ実在論(realism)でも意味がまったく違うので、全体として辻褄が合わない話となってしまっている。引用部分の直前までの議論を読めば分かるが、フレーゲ実在論とは数学におけるプラトニズムと呼ばれるものであるが、ダメットの反実在論はそうした実在論とは直接には関係がない。フレーゲ実在論唯名論と対にされた考え方であるが、ダメットの反実在論はむしろ観念論と対にされた実在論に近いのであり、英語では同じrealismであっても基本的に別の考え方である。
そもそもダメットの反実在論とは実在論実念論)と唯名論が対立する普遍問題を根本から否定している、つまり普遍が存在するか?という普遍論争は解決不能なので議論するだけ無駄と言う立場に等しい。実は現代形而上学のおける唯名論にも極端な唯名論と穏健な唯名論とがあって、ダメットの反実在論クワインやグッドマンが採った極端な唯名論に近く、可能世界やトロープのような形而上学的な存在にコミットする穏健な(?)唯名論には批判的な立場となる。ちなみに、唯名論と対立する実在論実念論)にも極端な実念論と穏健な実念論とがあって、極端な実念論プラトニズムとして強く批判されており、現代形而上学では穏健な実念論の方が支持される。反実在論と極端な唯名論との共通点は、世界全体を一般名によって説明できることへの拒否であり、それがクワインによる科学理論と神話の同等視やパトナムのモデル論的論証に表れている。その点では(可能世界唯名論やトロープ唯名論などの)穏健な唯名論は普遍を拒否しながらも世界全体を一般名によって説明できることには比較的に楽観的である。
ダメットの反実在論とは世界と心の依存性に関わる考え方であり、その点では(世界は心に依存しているとする)観念論と対立する実在論(心と世界は独立している)に対応しているのであり、実際にダメットの哲学は観念論だと批判されることさえある*1。ダメットの主張する形而上学的な反実在論がいわゆる観念論とどのくらい区別できるかは私にはよく分からない(よって科学哲学の反実在論とはある程度分けて考えた方がいいかもしれない)が、少なくとも普遍論争における実在論実念論)とは別物であるのは確かである。「心と世界」の神崎繁による解説はこうした二つの実在論が混同されているので話が混乱しているところがある。とはいえ、そこを注意して読めば得られる所もあるので読む価値はある(近年のマクダウェルが非概念性に対して微妙な立場を表明している所など興味深い)ので、興味のある人にはお勧めです。

心と世界

心と世界

*1:同じ観念論でも、例えばバークリー的な観念論とヘーゲル的な観念論が同じとは思えないので、細かく議論する必要はありそうだがここでは論じない