結論より過程が大事、だから熟議的民主主義の勧め

私は近年の日本にすっかり嫌気が差している。世間にも同じような気持ちの人は多くいるようだが、その人たちのほとんどは日本の政治家が悪いからだと思っている節があるが、自分はそう思わない。私は、問題は国家が何とかしてくれる(してくれるべきだ)と思っている日本の国民の方にうんざりしている。00年代の市場万能主義の次は10年代の国家依存主義かよ!と思うと、その極端な振り子の揺れに暗鬱とした気分になる。宮台真司東日本大震災の直後は非科学的な説に右往左往していて、ずっと時代に飲み込まれずに対抗してきた宮台真司もさすがに焼きが回ってきたかとがっかりしていた。しかし、最近になって再び鋭い宮台真司が少しずつ帰ってきた。
原子力発電の話は私も大震災後の当初は興味を持って追っていたけれど、段々と原発反対が単なるスローガン化し原発擁護もまともに検討される訳でなくズルズルと流されてるだけなのを見ててすっかりうんざりしてしまった。宮台真司原発反対派だが、正直なところ彼に限らず原発に反対している知識人はそれがかっこいいからやってるようにも感じられてあまり話に乗れなかった。そこに宮台真司が(原発問題に対して中立的な)住民投票の制度の推進に乗り出しているのを知り、これこそが今の時代に(飲み込まれずに)対応した優れた考え方だと感じた。また時代に敏感な宮台真司が戻ってきたことは大歓迎だ。
最近の宮台真司が推し進めているのはワークショップ型の熟議的民主主義(Deliberative democracy*1と呼ばれているものだ。熟議的民主主義には馬鹿な批判があって、ハーバーマス辺りを持ち出して話し合いによる完全な合意なんてないから無理という批判だ。ハーバーマスで頭が止まっていて晩年ロールズ以降に頭が行かない不勉強を脇においても、そもそもにおいて思想と制度を分けて議論できてない時点で話にならない。熟議的民主主義にとって大事なのは制度の部分で、政治的決定へと向けて情報公開や意見交換が行われる熟議過程とその後になされる決定場面に分かれるが、決定が投票による多数決になりがちなのは他に適切な方法がないからだけでしかない(文句があるなら他の方法を提示してくれ)。ここでとりあえず大事なのは熟議過程の方であって決定方法の方ではない。
近年の日本でうんざりするのは、その場だけの感情による政治的意見が流通してしまうことで、例えば最近だと生活保護不正受給問題がそうで、たまたま目に見えた不正に騒ぐばかりでそれが本当に大事な問題なのかは真面目に議論されない。こういう中で単に原発反対を(自分に都合のいい情報だけにしか目が行かないままに)お題目のように繰り返すばかりの(自己中心的な)知識人や評論家など当てにならない。むしろ大事なのは(ネット上も含めて)必要な情報が公開され異なる意見がぶつかり合い議論が交わされることである。専門家に対して御用学者だの何だのとすぐ騒ぐ馬鹿もどうでも良くて、専門家だって意見が分かれる問題があるのは当たり前であり、客観的なデータで解決できることはそうしそうでない(大部分の)ことは公開で議論されるしかない。議論によって問題が解決するか自体も最終的にはどうでもよくて、政治的決定へむけて議論がなされる事自体が大事である(どのように議論を意義のあるものに出来るのか?はとりあえずは別の問題としよう)。結果としてどんなとんでもない政治的決定がされることになろうとそんな結果論はどうでもよくて、ともかく熟議過程こそが熟議的民主主義の命である。自分の意見だけが正しくそれが通りさえすればいいと考える自己中心的な人が目立つ中、結論より過程を重視する考えには大きな意義がある。
宮台真司が最近の日本の国家依存の一側面である自分たち自身ではろくに考えないという側面に対応しているのは喜ばしいことであるが、とはいえ熟議的民主主義は別に万能な訳ではないのでそれを補完するために国家依存の別側面への対処としての共同体主義も大事である。宮台真司が提示しようとしている熟議的民主主義プラス共同体主義の組み合わせ(例えばこれを参照)がどのようなものでどのような意義があるのかはまた別に機会に考えたい。

  • 参考文献

人々の声が響き合うとき : 熟議空間と民主主義

人々の声が響き合うとき : 熟議空間と民主主義

著者のフィシュキンは熟議民主主義の代表的な研究者。私はこれを読んで熟議民主主義の可能性に目を開かされた。

*1:ワークショップ型の熟議的民主主義についてはこちらの論文も参照→http://ci.nii.ac.jp/naid/110006183312