非概念的内容から概念的内容を合理的に再構成してみる試み(ただしまだ途上)

マクダウェルは感覚データと非概念的内容を安易に同一視しているが、これ以外にもマクダウェルは都合のいい理解をしている所がある。例えばセラーズの有名な論文「経験論と心の哲学」の最終章の知覚の議論を思いっきり無視したご都合主義が伺える。ローティの前書きではこの最終章を指して、言語と画像の対応を望む反動的欲望だとはっきりと批判しているのだが、マクダウェルはここを明らさまに無視する。同じくセラーズ支持者でもマクダウェルとローティでは考え方が異なり、ローティはブランダムと共にデイヴィドソン的な方向を徹底させたヘーゲル的な観念論をひた走るが、それと対照的にマクダウェルは正当化を可能にする知覚を無視するデイヴィッドソン*1を批判して独自の道を歩んでいる。ただ問題はその非概念性を認めない道がセラーズが通ろうとした道と同じとはあまり思えないことである。ローティがセラーズとはその点で轍を分かとうとしてる事をはっきり表明していることを考えるとちょっとずるい。
セラーズは「経験論と心の哲学」の最終章で知覚の構造を扱うためには普通の物の理論では駄目なので微小構造による理論が必要だと指摘している。どうもこの考え方は、知覚の研究のためにはニュートン的な物理光学とは異なる知覚のための生態光学が必要だと主張したギブソンを連想させる。だがこの連想はギブソンの身体的知覚論とマクダウェルの知覚概念論を同時に採用しようとしているノエのことを思うと皮肉である。以前にもノエがドレイファスとマクダウェルを両立させようとすることの無理さを指摘したことがある(以前書いた記事である「マクダウェルと認識論に関する私論」を参照)が、ノエのいいトコ獲りなところはここにも現れているのかもしれない。マクダウェルやノエによるセラーズ理解は唯一の正しい解ではない。セラーズが非概念的内容を全く認めていなかったと言い切ることはできない。
ここで注意すべきは、非概念的内容はそれが直接に知覚されたり意識されたりする訳ではないことであるし、マクダウェルでさえ「心と世界」ではそこに注意を払っている。エヴァンスの「指示の諸相」を見ても知覚から普遍の認識に向かうような普遍問題へは向かっておらずその手前で立ち止まっている。エヴァンスが「指示の諸相」でしているのは物の同一性の話を現実に即してすることであり、今ここにある物の同一性と記憶の中の物との同一性を分けて議論したりしている。エヴァンスは知覚の非概念性を積極的に認めているというよりは思考との違いを示したかったのであり、概念問題や普遍問題にはほとんど踏み込んでいないように思う。まずすべきは知覚から個物(や性質)を取り出すことの方だ。
知覚的な非概念的内容から個物を抽出する試みをした哲学者が実はいて、それがパースやホワイトヘッドである。パースやホワイトヘッドがメレトポロジーを採用しようとしたとの指摘(例えば「メレオトポロジーの基礎について」(PDF)の『おわりに』を参照)があるが、このメレトポロジーこそが連続的な非概念的内容から離散的な個物を取り出す試みと言える。メレトポロジーの特徴はメレオロジーとは異なり最小単位としての哲学的アトムを原初的には認めないことであり、その点ではむしろライプニッツの(微分的な)モナドに近い。知覚の中にトポロジー的な境界を見つけ出しそれが個物として認識される。ただし、パースやホワイトヘッドの議論は形式的に整える事ができる反面、ギブソンエヴァンスの中にある知覚の動的(時間的)な特徴までは捉えられていない。(持続問題や構成問題よりも遡る)個物問題はまだほとんど始まってさえいない。
哲学的には概念問題や普遍問題より以前に個物問題があることをここまでで指摘してきたのだが、哲学において個物問題は解決されてないどころかろくに議論にさえされていない。そもそもにおいて現代形而上学では普遍問題や心身問題はよく問題にされるが個物問題は話題にもされない*2。一から世界を構築する試みとしての形而上学を考えるためには普遍問題や心身問題に劣らず個物問題も重要だと思うが、そう思っているのは所詮は少数派かな〜

  • 主な文献

心と世界
経験論と心の哲学
The Varieties of Reference (Clarendon Paperbacks)
自然という概念 (ホワイトヘッド著作集)「自然という概念」
知覚のなかの行為 (現代哲学への招待Great Works)
直接知覚論の根拠―ギブソン心理学論集

*1:厳密に言えばデイヴィドソンが知覚を一切無視したとは言い切れないが、少なくとも対応関係によって真を与えるような知覚は前提にされていないのであり、おそらくそれだけでマクダウェルの批判に値するのだろう。かといって知覚を考慮しないローティ(人が発するのは単なる雑音だ的な構築主義)がデイヴィドソン解釈として適切とも言えない。真理条件は知覚されてるかもしれないがそれが対応関係である必要はない程度に考えるのが妥当かもしれない(ダメットの言うところの慎ましい意味論!)。

*2:あえて言えば普遍の個体化やトロープの束としての個体が近い議論かもしれないが、どっちにせよそれらも個別に論じられてるに過ぎない。