現代存在論についての徒然(トロープと基体説の巻)

『現代存在論入門』のためのスケッチ(第三部)はお勧めできる論文ですが…

倉田剛の「現代存在論入門」の草稿は既に第二部までは興味深く読ませてもらっていたけれど、第三部がネットで手に入るのをつい最近知って早速読んでみた。第三部の話題はトロープなのだが、これまでより文章も読みやすく文献への参照もよくなされていて読んでいてとても参考になった。ただ困ったことに第三部ではこれまでには感じなかったような突っ込みどころが見つかった。それらはどれもアームストロングの「普遍入門」(未邦訳)*1に書かれているような基本事項なので、アームストロングの本も読んでいる気配がある著者がなぜそんな勘違いをしたのかは謎だが、ここではその指摘だけもしてみようと思う。

トロープ唯名論を採用すべき最大の理由の一つに触れられていない

トロープとは何か?については最初にリンクした草稿を読んでもらうのが一番都合が良いのだが、簡単に説明するとトロープとは(個体から切り離された)具体的な性質のことである(例えば薔薇そのものではなく特定の薔薇の赤さそのもののこと)。
第三部(p.168以降)ではトロープ唯名論が紹介されているのだけれど、なぜかトロープ唯名論を採用すべき最大の理由の一つに触れられていない。それは共外延問題と呼ばれる問題をトロープ唯名論が解決できる事である。共外延問題については第二部で既に触れられているのだが、だからこそなぜこちらでも言及しないのかは謎だ。
共外延問題について、詳しくは第二部の説明を見てもらうとして、ここではそれを簡単に要約する。共外延問題とは、その概念によって示されている個体の集合(外延)が全く同じ場合、その概念の意味を外延(指示対象)によって区別することができなくなる事である。クワインの有名な例では、心臓があることと腎臓があることとは現実世界の生物においては必ず同時に成立していて、心臓があるものと腎臓があるものとは現実世界では全く同じ個体の集合である。つまり、心臓があることと腎臓があることは外延が全く同じなので区別がつかない。このような共外延問題を回避するために可能世界唯名論があるのだけれど、心臓があることと腎臓があることのような経験的事実には強いけれど、三辺性と三角性のように必然的にどちらも同じく三角形を指す性質の場合は可能世界唯名論でも太刀打ちできない*2
そこでトロープ唯名論の出番だ。トロープ唯名論ならこのような共外延問題は生じない、なぜなら概念の意味を示す外延が他の唯名論と違って個体ではなくトロープだからだ。三辺性と三角性でも同じく三角形を指すのではなく、それぞれが特定の三角形の三辺っぽさや三角っぽさのトロープ集合を指すので外延が同じにならない。アームストロングが「普遍入門」で自らが支持する穏やかな実在論実念論)と一緒にトロープ唯名論も認めているのは、どちらも共外延問題に答えられるのも大きな一因だと思われる。こうした長所に触れられていない第三部はトロープ唯名論に対してフェアではないように感じられてしまう(実際にトロープ実在論の擁護へとすぐに話が移ってしまう)。

基体説(実体-属性説)は束説と同じく変化に耐える同一性の問題に弱いのか?

この第三部では、トロープ唯名論が単一カテゴリー存在論であろうとすると必然的に採用することになる束説に関する問題点に触れられているのだけれど、ここでもおかしなところに気づく。束説全般に成り立つ典型的な批判が基体説(実体-属性説)にも成立するというのだ。だとしたら世の中の存在論について語る哲学者はみんな(この著者より)馬鹿ってことになりうるが、そんなことはもちろんない。むしろ逆にここで触れられている問題点を回避できることが基体説(実体-属性説)の最大の特徴とも言われる。
さてその問題とは何か。直接引用しよう→『束説全般に対する批判としてよく目にするのは「束理論は、日常的な個体が変化を通じて同一に留まるというわれわれの信念をうまく説明することができない」という批判である』(p.179)。束説とは個体は性質(トロープ)の集まりであるとする説だが、ならば性質が変化してもその個体が変化前と同じ物であると言える保証はあるのかという批判である。著者はこれに対して基体説(実体-属性説)にも同じ批判が成立するからと話を進めるが、一般的には逆に基体説こそがこの問題に対処できるとされる。基体説とは基体(裸の個別者)に様々な属性が結びついて個体となっているとする説だが、するとどんなに結びついた属性が変化しようが同じ基体に結びついている限りは同じ個体であると言えることになる。この辺は不可識別者同一性の原理とも関わりがあるが、長くなるのでここでは省略する*3。基体説(実体-属性説)が典型的に答えられるとされる問題にどうしてこんな勘違いを著者がしたのかはよく分からないが、これでは基体説に対して失礼だとさえ感じてしまう。
色々と指摘したきたけれど、この草稿が読む価値のあるものであることには変わりはありません。著者が四カテゴリー存在論に傾倒気味であることを考慮に入れるにしても、興味のある方にはぜひ読む事をお勧めしたい。

*1:詳しく知りたい方は"Universals: An Opinionated Introduction (Focus Series)"で確かめてください

*2:もしかしたら矛盾した対象をも平気で認めるマイノング主義ならば対処できるかもしれないが、例えば辺が三つで角が五つの図形がどんなものなのか私にはさっぱり分からないので、対処できると言い切ってしまうのは躊躇してしまう

*3:ちなみに、ここで言及した不可識別者の同一性の原理と似た用語である同一者の不可識別性の原理とは異なる原理なので混同には注意。区別できないから同じなのか?と同じだから区別できないのか?とは違う問題だよ