柴田寿子「スピノザの政治思想」を読んで勝手に考えたこと

スピノザの政治思想―デモクラシーのもうひとつの可能性

日本人学者によるスピノザ政治論の傑作

著者は既に故人だがそれが本当に惜しまれるほどのスピノザ政治論の大傑作。始めはアマゾンのレビューでも書こうと思ったが、既に見事に褒めてるレビューがあったのでそれはやめた。だからこの本を読んで考えたことを徒然にでも書く事にした。以前に読んだスピノザ政治論とは違って、ネグリによるスピノザ解釈を真に受けずに批判的に接しているのを始めとして、そうした批判的な議論が全体的に見受けられて読んでいてとても面白い。一応書いておくが、以下に書く事は単なる個人的な見解に過ぎないのであまり真に受けすぎないように…

国民国家の成立が政治思想の構図を変えた

唐突な話でなんだが、この本を読んで得られた予想外の副産物はカール・シュミットの政治論を理解できるようになったことである。最終章でスピノザの書かれざる民主制論を語る上でカール・シュミットが参照されているが、それを読んで今までどうしてもピンと来なかったカール・シュミットの政治論が分かるようになった。というのも、一般的にはカール・シュミットナチスの御用学者呼ばわりされていて、でもそれだけだったらマヌケな学者として軽視すれば良いだけなのだが、実際にはそんなことはない。今まではその理由がいまいち分からなかったのだけれど、この著作でのシュミットへの言及で目から鱗が落ちた。シュミットによる民主制と独裁は両立するといった議論は、よく言われるように単にナチスを支持するための話ではなくて、ナショナリズムと多数決としての民主制が結びつくと独裁が生じうるんだという議論だったのだ。つまり、国民国家における政治的権利の制限(例えば女性や狂人には選挙権を与えない)の元で単なる多数決を行なえば、同質な価値を持った均一な多数者が異質な者を排除した上で主権を握る事ができるのだ。それこそがナチスによるユダヤ人排除として実現したといえる。本文ではスピノザもシュミットの指摘したのと同じ問題を論じていたという展開になるのだが、それは脇に置こう。私はむしろスピノザの時代とシュミットの時代との問題意識の違いに目が向いた。それは要するに国民国家に対するナショナリズムの有無の違いである。
この著作では、スピノザホッブスの政治思想の違いが思想史的な背景から説明されている。ホッブスピューリタン革命後のイングランドの混乱を前にしているのに対して、スピノザは分権主義的なオランダにおける政治的な不安定に直面していたことが、その政治思想の違いに反映されていたという。しかし、ルソーへのスピノザの影響を論じた章を読むと、ルソーに比べるとスピノザホッブスの間の違いが小さいものに思えてくる。ルソー辺りを転換点としてシュミットの時代までずっと続く国民国家の本格的な成立(一般意思!)への道が始まるのだが、明らかにスピノザホッブスはそうした大きな国民国家に面していない。この著作の第六章の第三節で論じられている、J.S.ミルの私的領域における自由の擁護からバーリンの消極的自由の擁護へという古典的自由主義の流れも、ルソー以後(フランス革命アメリカ独立以後)の国民国家の成立の政治思想への影響を反映している。要するに、一方で強い国民国家をより必要としながら他方で膨大な数の国民を統治する必要が生じた結果として、私的自由の領域を拡大させることになったのだ。ルソー以前以後にはさらに産業革命の影響も大きく、商業資本主義から産業資本主義(大量生産!)への転換がより強大な国民国家を必要としたのかもしれない。保守主義社会主義も(ナショナリズムの源の)ロマン主義もルソー以降の時代に生まれたが、それも産業資本主義と国民国家の時代を反映していたのだ。(シュトラウス的解釈なりオークショット的解釈なりのホッブスを含めてもよいが)共和主義を影で支持したスピノザといい市民社会による秩序を信じたロックといい、まだ巨大な国民国家には直面していないからならではの政治や社会への楽観さが見えなくもない。

ミクロな権力を論ずる自然史的な議論の誕生

国民国家の本格的な成立の以前と以後で分けて政治思想について論じる方が私には分かりやすく思えるので、以降はこれを採用しよう。実はスピノザの政治論が同時代の代表的な政治思想家(ホッブスやロック)とは異質な感じがして、今までの私にはうまく整理できていなかったのだが、この著作を読むと(ロックへの言及は少ないとはいえ)示唆するところがある。ホッブスやロックの違いは自然状態の解釈にあり、ホッブスにおいては自然状態では利己的な個人が(自然権を巡って)戦争状態にあるが社会契約によって(自然法が司る)社会状態に移行するのだが、ロックにおいては(自然権の保持と自然法の浸透によって)自然状態は平和な状態にあるが、自然法の不安定さによって戦争状態に陥りがちなので、国家がそれを律することによって安定した市民社会になる。ホッブスとロックでは自然状態を悪しきと見るか良きと見るかの違いはあれど、政治を行なう主体としての主権が生じる点では類似している。しかしスピノザでは主権の出番があまりなく、このことがホッブスとロックにはあった政治そのものの発生に対する説明が、スピノザには見当たらないことにつながっている。スピノザには政治的なものへの言及の多さに比して政治そのものへの言及はそれほど多くない。そしてそれこそがスピノザの思想を他の同時代の政治思想とは異質なものにしている。
スピノザの同時代における異質さは主権概念だけでなく、(スピノザが社会契約説を破棄したのかを別問題にしても)他の政治思想的な概念全般にわたっていることがこの著作を読むと分かる。自然権とは元々は自らを有利にする利己的な権利のことだが、スピノザにおいてはより一般的に個人の持つ力として使われている。人々が共同的に暮らすために暗黙のうちに受け入れらている自然法も、スピノザにおいては自然法則と区別がつかなくなっている*1。つまりスピノザにおいては政治を発生させる契機となる主体や権利や法の概念が欠けているのだ。権利を力に法を法則へと還元するこの考え方は、心身問題などにも見られるスピノザの一元論を反映しているように思われる。それにしても、こんな概念構成で政治について何か意義のあることを論じることなどできるのだろうか?
ここからスピノザならではのオリジナルな政治論が始まるのであり、それは現代ではアルチュセールイデオロギー装置やフーコーの生権力やブルデューハビトゥスとして応用されている議論だ。つまり人の日常的な生活がいかにして政治的なものであるのかをスピノザは議論しているのだ。日常生活の政治性と政治制度が一直線につながっているのがスピノザ政治論の特徴だが、それはスピノザが権利と力を法と自然法則を区別しないことことと関連している。ここで注意すべきなのは、スピノザは法の自然法則への還元のように見えるが、現代的な自然科学への還元主義としての自然主義とは異なることである。現代の自然主義とは古典的には物理学への還元であり、最近の傾向では生物学への還元であるが、スピノザはそうした科学法則への還元とは無縁である。もちろんその真逆である歴史への還元である歴史主義とも異なる。「ウィトゲンシュタインはこう考えた-哲学的思考の全軌跡1912~1951 (講談社現代新書)」(p.236-)で後期ウィトゲンシュタインがとったとされる自然史的展開がスピノザのとった立場に最も近い。要するにいかなる還元主義に組みするともなく自然と歴史と同一平面に置く考え方であり、ローティの言う自然主義とはむしろこの考え方(自然史主義?)に近い。こうした自然史的な考え方はギブソンベイトソンによる生態学的アプローチとも共通点を持っており、スピノザとの距離も近い。しかしここで注意すべきなのは、こうした生態論およびそれと関連した身体論や創発論を語る論者の中には、自分の考え方が事実を説明するものかあるべき秩序(規範)を提案しているのか区別がつかないままに論ずる人*2がうんざりするほど多いことだ。スピノザもそうじゃないかという懸念はあったのだが、これを読む限りでは事実と規範の混同はスピノザにはなかったようだ。日常生活の(身体を通した)政治性の分析の段階にあくまで止まっている。しかしであるが故に、戦争状態と社会状態との区別をしたホッブスやロックとは異なり、政治的なものとは異なる政治そのものついて語ることが困難になっているとも言える*3
ここで「スピノザ共同性のポリティクス」でのスピノザにおける政治と倫理の分離テーゼのおかしさにあらためて気がつく。スピノザアリストテレスやカントにように外部から規範を持ち込んでいるのではないように見えたとしても、それはスピノザが事実の分析に止まっていたからでしかない。だがスピノザは(おそらく「エチカ」の見解と一致して)能動的な感情(喜び)によって成り立つ政治を夢見ていたかもしれないことが、この著作の最終章を読むと分かる。確かにスピノザは外から規範を持ち込む道徳は排除していたかもしれないが、人の生きる道としての倫理まで排除していたのではないはずだ。スピノザによって民主制論は書かれなかったが、おそらくそこではローティのいう政治への希望(喜びで満たされた政治)が展開されたはずではないのだろうか*4スピノザは、現在の論者によくありがちな事実と願望を混同すること、には陥らないリアリストでありながら、超越的な対象(哲学的理念や神や科学法則)に頼ることなく希望を語ることのできた稀有な人物だったのかもしれない。

*1:ちなみに、モンテスキューの法概念はスピノザに近い(p.187)とあるが、アルチュセールモンテスキュー論を読むと、モンテスキューは法を破りうる法則を持ったのが人間だとしていて、スピノザとはちょっと違うようにも感じる

*2:身体も創発も生態もそれ自体で良き物では別にないのに、それに反する議論に反対するだけで良き秩序がもたらされるように語る、祖のギブソンベイトソンなどとは似ても似つかない不肖のフォロアーたち

*3:例えばフーコーの生権力論はあくまで制度の分析であるが故にあるべき秩序(規範)を提出しているのではない。マルクス主義のイデオロギ─批判やニーチェの系譜学は分析としては重要だけど、それだけで現実が変わる訳ではない。この辺りには無意識を暴くことを目的にした精神分析と同じものを感じる

*4:この本を読むと、人々の諸表象を調整する政治という考え方も垣間見られる。しかし調整の仕方によってはファシズムもありえるし、ネオコンの立場にも近く感じられる。はたしてスピノザがそこまで認める(マキャベリに匹敵する)徹底したリアリストだったのかはよく分からない。