ディディ=ユベルマン「イメージの前で」から現在思想的な芸術論を学ぶ

イメージの前で: 美術史の目的への問い (叢書・ウニベルシタス)

現在思想的な美術史の脱構築としてまあまあの出来だが、今更読む意義があるかは微妙

まず始めに注意すべき点は、これは過去の芸術作品を扱った美術史そのものの本ではなくて、学問としての美術史に対して批判をする著作であると言うことだ。だから美術史について何も知らない人がこれを読んでもさっぱり理解できないので、そういう人はこんな本を読む暇があるなら良質な美術史の著作を読む方が先だ。美術史に関する基本知識があることを前提にして話を進める。
私は美術史に関する解説書みたいのを期待してこれを手に取ったが、それは完全な見当違いだと分かった。これは美術史という学問を批判的に検討する著作なのだが、そう聞くと悪くなさそうな本にも思える。だが実際の中身は現在思想的な語りの七面倒臭い本なので、そういう本にアレルギーのある人は読むのを止めた方が妥当です。少なくともそういう人が無理して読むほどの価値はない。でも現在思想の影響を受けた著作としてはそれ程には悪い本ではないと思う。
これは現在思想系の著作によくある文学的な語りに嵌った読むのが面倒な本で、全体の構成の見通しが悪いので、それをよくすることをこれからの目的としたい。個々の書かれている内容に関しては各自で読んで判断してもらいたい。現在思想系の著作というのは字面の面倒さに関わらず、話の構成には一定のパターンがあって、それさえ分かれば内容をそれなりに理解して読めるようになる。これから示すのはそのためのガイドだ。

この著作の内容への見通しをよくするための批判的検討

まず、第一章は全体を概観するイントロダクションだが、イントロダクションの常で抽象的な書き方をしてるのでいきなり読んで分かるものではない。ここは最後に読み直すことをお勧めします。その次の章からが本論だが、基本的な流れは美術史の脱構築から新たな芸術論への示唆と進むが、この流れの原型はハイデガーによる哲学史の解体と新たな存在理解へ向けた構成という二段階に対応している*1現代思想系の著作ではあちこちでハイデガー哲学とのアナロジーが反映されているので知っていると便利だ。
第二章は美術史の起源としてのヴァザーリ論だ。ヴァザーリルネサンス時代の美術史家だが、これがその後の美術史の基礎を作り上げたものとして批判的に検討される。こう聞くと面白そうにも聞こえるが、残念ながらこの章は本論の中では比較的に大事ではない章になっている。理由は簡単で、その後の議論との繋がりが弱いからだ。本論との繋がりで大事なのは、学問としての美術史を形成した起源としてのヴァザーリぐらいで、著者がこの章で拘って論じている事は本論との関連が薄い。それはヴァザーリの中にある中世暗黒史観(ルネサンスは光!)と目的論的な発展史観(美術は時代が進むと共に進歩する)なのだが、これらは後の美術史にはあまり受け継がれないので、その批判が後の美術史への批判にうまくつながらない。だいたい中世暗黒史観といい発展史観といいルネサンスならではの楽観的な思想で、別に美術史だけに特別に見られる訳でもない。だからヴァザーリ論は本論との関係で見ると浮いている。中世暗黒史観が本論での学問としての美術史(形而上学!)への批判と関連していて、近代美術史は中世芸術を扱えないという批判の可能性は(著者のアンジェリコ好きからも)考えられるが、補遺で近代美術史はフェルメールを扱えないという話もあるので、中世暗黒史観と学問としての美術史批判が必然的にくっついている訳でもなさそうだ。たとえその繋がりを認めるとしても、この著作全体で中世芸術の研究で有名なエミール・マールが系統的に無視されている事には欺瞞を感じざるをえない。第二章は(個々の記述内容の価値は別にしても)芸術作品を知的に論ずる美術史の起源としてのヴァザーリへの言及だけが本論との関係で大事な話ということになる。
第三章はイコノロジー研究で有名なパノフスキー論だが、この章はこの著作の中では白眉に当たる。この章はこの著作の中で最も文献に基づいていて議論もしっかりしている章となっている。内容としては、パノフスキーカッシーラーを介してのカント哲学の影響を論ずることで、学問としての美術史は形而上学的であるというハイデガー=デリダ的な批判が展開されている。カントは「純粋理性批判」と「判断力批判」とで知的認識と趣味的判断とを分割したが、パノフスキーは美術史を学問として成立させるために、カッシーラーのシンボル形式の哲学からの援護を得て、美術史の基盤に純粋理性批判のカントを持ってきたのだ。だがその所業は芸術作品を知的な領域に閉じ込める学問としての美術史を生み出してしまったことになる。こういう(この場合は美術史の)前提を問う議論はハイデガー=デリダ的な形而上学批判を思わせる*2し、実際にパノフスキーのイコノロジー形而上学呼ばわりされてもいる。この章の議論は面白いので実際に読んで確かめてもらうしかない。
ただこの章で問題に感じることが幾つかある。一つ目はパノフスキー批判でもって美術史批判を代表させてしまってよいのかということ。二つ目はたとえ美術史が形而上学的であったとしても、美術史を学問として成立させるためにはそれは仕方がないのではないか(言い方を変えれば、学問の問題と趣味の問題を分けておくのはカント的にも正当な事ではないのか)。後者はこの後の本論とも関連するので後で論ずるとして、まずは前者だけ論じておこう。
パノフスキーでもって美術史を代表してしまうのは明らかに問題があるが、著者はそのことに無頓着だ。とはいえ、著者の議論を擁護することは不可能ではない。その理由はどこにあるかというと、パノフスキー自身がそれまでの美術史を総括している部分があるからだ。分かりやすいのはパノフスキーによるヴェルフリン批判で、絵画に描かれている事しか見ないヴェルフリンの様式論は批判対象となっている。絵画の様式論はパノフスキーによる美術史の三段階では最も低い段階に置かれている(精神主義*3として批判されるリーグルは三段階に含まれてさえいない)。ここでややこしいには、最高段階にパノフスキー自身のイコノロジーが位置しているのはいいとして、問題は第二段階のイコノグラフィーについてはこの著作では具体的な指摘がないことだ。しかし少し美術史の知識を探れば思い当たると思うが、第二段階のイコノグラフィー(文献学的な美術史)の代表的な美術史家はエミール・マールではないかということだ。そう考えると、ヴァザーリ論にとって都合が悪いからといってエミール・マールを無視したことが美術史批判としてのパノフスキー論に響いているのは明らかに問題だ。ゴンブリッチに関しては年代的にパノフスキー自身が語ることは間に合わなかったのでそれだけは著者が独立して論ずる必要があったとしても、せめて著者がパノフスキーによる美術史の三段階をもっときちんと議論しておけば、パノフスキー批判を美術史批判に一般化することがそこまで不自然ではなかったはずだ。それにパノフスキーはイコノロジーを解釈学として定義している事を考えると、それまでの美術史を表面的な芸術読解として批判するパノフスキー、そのパノフスキーをそれにも関わらず芸術を所詮はテキスト(概念)としてしか見ないとして批判する著者、というアイロニックな議論を展開できたこともできたはずだった。せっかく膨らませれば面白くなるはずだった議論を展開できなかったのは本当にもったいないと感じる。
残りの第四章と補遺はそれまでの章とは違って、形而上学としての美術史への批判から著者自身の新たな芸術論の提示に当たる。つまりハイデガー的には解体(脱構築)から構成に移行している。ただ第四章と補遺に関してはその前の二章に比べると実証性がぐっと薄くなって語り方が現代思想色が強くなってくる。だから学術的な価値も低くなり読み手も選ぶ文章になっている。現代思想系の文章に深遠さを読み込む気がとっくになくなっている自分としては別に読んでいて面白い訳でもなく、美術史の本を読む方がマシだ思ってしまう。だいたいそこで語られていることも現代思想の典型的なパターンにはまっていて、形而上学的な美術史によっては語れない何かとして裂け目だの徴候だの面だのといった特殊な用語が用いられるのだが、そのやり口自体が後期ハイデガー神秘主義的な語りとのアナロジーを感じてしまう。第四章では形而上学的な美術史とは異なる芸術論を精神分析フロイト)に探ろうとしているが、そこでなされている議論も提示される芸術論も私には大して面白いと思えなかった。補遺では芸術を細部に分割する閉じた美術史に対して芸術を開かれた全体として扱う面の芸術論が展開されていて、形而上学批判(美術史批判)と形而上学によって語れない何か(面の芸術論)という図式の正しさが正当化されているようにしか見えない。
ここで先の段落で示した二つめの批判に戻ると、そもそも美術史が学問であろうとしたら必然的に形而上学的であらざるとを得ないのだとしたら、それは非難されるべき事ではないように思われる。実際に著者独自の芸術論は文学的な語りにしかなってない。というか、ある種の現代思想系の議論では、形而上学であらざるを得ない西洋的学問が批判されて代わりに提示されるのは独特の文学的語りでしかないということがよくある。しかもその独特の文学的語りとしての現代思想節は一部のマニアにのみ理解できる代物でしかないのなら、そんなの学問としての美術史の代わりになどならない。現代思想学者は他の普通の学者には触れられない特別な何かを確保しておいて優位に立ちたいだけじゃないかとさえ感じてしまう。しかしその特別な何かとは一部のマニアで内輪に重宝されているだけの単なる幻想でしかないようにも思える。だいたいこの著者は美術史に美学を求めた上でないと文句を言っているように見えるが、そんなもの学問としての美術史には始めからない。カントの示すように美学は趣味の領域の問題であって知的認識の領域の問題ではない*4。趣味と学問を分ける美術史は賢明な慎ましさを持っているのであって美に臆病な訳ではない。むしろ美を一部の特権を持った自分たちのものにしてしまおうとする野心的な現代思想野郎が傲慢なのだ。私はすべての現代思想君が傲慢だと思っている訳ではないが、そういう側面をもっていることは否めない。ここで思い出すべきなのは(現在思想の大本の)ハイデガーの問題意識が元々は宗教的なものだったことである(ハイデガーは元神学者だ)。ハイデガーがその問題意識から絞り出した議論がフォロワーによって消費されるのを見るのは忍びない。

*1:これを気軽に確かめられるところでは「ハイデガー『存在と時間』の構築 (岩波現代文庫―学術)」がある

*2:または精神分析の無意識暴露とも似ている

*3:翻訳ではリーグルとヴェルフリンがまとめて心理主義的として批判されているのだが、(ゴンブリッチならまだしも)これは訳が分からない。おそらくこれは時代精神を扱うヘーゲルのような精神主義だと考えれば納得もいくが、原文を確かめられないので確証は持てない。とはいえ「時代の心理」(p.164)という訳語はどう考えても変

*4:ただしパノフスキーでは解釈学的な領域という単に事実でも価値でもない微妙な領域が問題になっている。つまり(事実の描写でしかない)「帽子を取る」ことの解釈としての「挨拶をする」こと(p.165)に類似した事が求められる点ではイコノロジーは解釈学的だ。この点では夢を解釈する精神分析とも共通点を持っている。ただし、完成された文化理論を目指すイコノロジーが所詮は閉じた解釈学であることが批判されている。それに対して、精神分析(を規範とした芸術論)は開かれた解釈学だとされているようだが、それが裂け目や徴候といった特殊な用語によって開かれているとする神秘主義であることは否めない。さらに、イコノロジーが事実を記述するだけの自然科学と対比させられたところの人文学を目指していた点でも解釈学的である。また、自然科学からの離脱を目指していた所は(パノフスキーの参照する)カッシーラーも(現在思想の源の)ハイデガーも同じなのだが、カッシーラーが人文学の学問化を目標としていたの対して、そもそもハイデガーは学問化そのものから逃れようとしていた(ちなみにウィトゲンシュタインの社会科学者による解釈と哲学者による解釈にもこれと同じ対比が見られることがある)。