木前利秋「メタ構想力」のレビューとその注釈

メタ構想力―ヴィーコ・マルクス・アーレント (ポイエーシス叢書)

専門書としても一般書としても一長一短な、よくがんばりました賞の人文書

私の個人的な興味とたまたま合っていた内容だったので試しに読んでみたが、褒めるほどでもなく貶すほどでもなく、よく勉強してうまくまとめました!としか感想が出ない本。タイトルが「メタ構想力」なのでそれがテーマの本なのかと思ったら、所々で触れられてはいるが統一的なテーマと言えるほどのまとまりもない。いろいろな文献を参照していて頑張っている感だけは伝わってくるが、結局のところ何の話がしたかったのかよく分からないままに読み終えてしまった。
タイトルのメタ構想力とは、想像力と同義であるカントの用語の構想力から来た著者独自の言葉で、他人の想像力を想像すると言う意味でメタがつけられている。確かに時々メタ構想力への言及はなされているが、それがそれぞれの本論の内容と深く結びつけられている訳ではないので、そうタイトルをつけたから仕様なく言及してるだけにも思えてしまう。本のタイトルがテーマになっていると期待してはいけない。
肝心の内容だが、文献参照はしっかりしてるとはいえ、全般的に凡庸な人文系論文を読まされてる感は拭えない。第二部では分析哲学認知科学が(それらに詳しい私でも感心する程に)全面的に参照されているが、著者が何を議論したいのかよく分からないので、第二部は頑張って勉強した成果であるよくまとまったレポートみたいにしか見えない。全体として著者がオリジナルな議論や見解をあまり展開しないので、そもそも著者がどんな問題意識を持っているのか分からない。かといって、著者は専門的な思想史家でもないので、その方面で期待できる訳でもない。目的の分からない本を読まされるのは正直困惑する。
それぞれの部のタイトルから、第一部はヴィーコ論、第二部はマルクス論、第三部はアレント論となっていると分かる。とはいえ、第二部だけはマルクスのテキストへの参照が少なく、意図的行為論や霊長類研究ばかりが話題にされていて、部の最後もヴィゴツキーで終わっていてマルクスはどこ行ったの?と思ってしまう。第三部はアレントに関する徒然な論文集みたいな感じで、アレント論としてつまらない訳ではないが、特に統一的テーマがある訳でもなく積極してお勧めできる程でもない。そうした中で、第一部のヴィーコ論だけはテーマに一貫性があって比較的おもしろく読める。
第一部はヴィーコにおけるトピカ概念を軸にしてその思想展開を追っていて、ヴィーコ論としては比較的よくできている。個人的に突っ込みたい所がない訳でないが、合格点を与えられる程度にはまとまっている。ただし、そこでの議論がタイトルのメタ構想力とどの程度に関連しているかはやはりよく分からない。もしヴィーコに興味を持っているなら、このヴィーコ論だけのためにならこの本をお勧めしても良いかもしれない。

ヴィーコ論の個人的に突っ込みたい所ってどこ?

レビューの中ではヴィーコ論をそれなりに褒めておいたが、レビューを書くためにさらっと再読して確認してみた感じでは、本当はそこまで褒められるものではないと結論した。とはいえ、あまり悪口ばかりなのもなんなので少し甘く評価した。
私は中村雄二郎共通感覚論 (岩波現代文庫―学術)」の影響でコモンセンスだけでなくトピカや判断力に以前から個人的な興味を持っていて、気が向くと関連した文献を読んだりしていた。この本もその興味の延長で手に取ったのだが、はっきり言ってしまうとがっかりの内容だった。第二部が私の守備範囲の分析哲学認知科学を話題にしている割につまらなかった(研究紹介ばかりでオリジナルな議論がない)所を含めて、アレント論では判断力に大して触れられていなかったのは期待外れだった(構想力と判断力は無関係と言えないはずだが)。
一番の問題は第一部でのヴィーコのトピカ論。初読では違和感程度だったが再読の確認でやっぱりよく分かってないと感じた。私が元からよく知っていたのは「学問の方法」期の初期ヴィーコのトピカ観で、これは「共通感覚論」でも論じられている。トピカには(コモンセンスと同じく)二つの系譜があって、アリストテレスの系譜とキケロの系譜がある。キケロアリストテレスの影響を受けていたはずだが、そのトピカ論にははっきりとした違いもある。アリストテレスの「トピカ」が弁証術(対話術)の本なのに対して、キケロはトピカを弁論術(説得の技術)としてのみで捉えている。正確にはアリストテレスは「弁論術」でもトピカを取り上げているが、それはあくまで実用的な応用例として参照されている。「学問の方法 (岩波文庫)」を読めば、ヴィーコがトピカを弁論術として捉えるキケロの系譜にあることは明らかだ。弁論術は政治家や法律家が他人を説得するために用いる技術である(弁論術としてのトピカについては「議論術速成法―新しいトピカ (ちくま新書)」を参照)。この著作でのヴィーコポパーとの比較とかを読むと、どうもこの著者は弁論術としてのトピカをよく理解していないように思える。これが分からないとヴィーコの初期から後期へのトピカ観の転回がいかに大きいものかが分からない。
後期のヴィーコについては私はよく知らないが、それでもこの著作を読む限りでは、著者のヴィーコ観よりもガダマー(解釈学)やバーリンロマン主義)のヴィーコ観の方が妥当なように感じる。それにp.97にある相対的/絶対的な共通感覚という(高踏ぶった)記述も、その説明内容からもヴィーコキケロの系譜であることからも、むしろ相対的/絶対的な常識と訳す方が自然だ。つまり地域や時代に限定された常識か地域や時代を越えた常識かと言えば、いちいち説明しなくても自然と分かってもらえる文になるし、その後の絶対的な常識が啓蒙主義的かという質問にもはっきり見当違いだと答えられる(絶対的な常識とは異文化を理解するための解釈学的基盤でしかない)。ちなみに、ヴィーコがトピカを三段論法を結びつけている(p.105)のは明らかにスコラ哲学の影響である。
こうしたヴィーコにおけるトピカ観やコモンセンス観を思想史的に正しく位置づけられていないと、後期ヴィーコのトピカ観の展開の突飛さに気づきにくい。私の印象では後期ヴィーコのトピカとはパースのアブダクションに近い。つまり、物事の真偽を判断するデカルト的なクリティカに対して、そもそもの真偽を評価するための命題(仮説)を見つけ出すのが後期ヴィーコ的なトピカのようだ(ちなみにメトドゥスについては文字通りの推論と単なる方法の二つの意味が混じっていてように感じる)。そう考えると、トピカとクリティカの対比が新たな命題を見つけ出す文献学と命題の真偽を確認する哲学の対比に応用されているかもしれない*1。だとすれば、後期のヴィーコは(キケロ的な初期とは異なり)アリストテレス的なトピカに近づいているようにも思える。しかし(後期ヴィーコにおける)知覚を結びついたトピカと言葉と結びついた文献学が分離しているようにも見えてしまうが、それら(知覚と言葉)を関連付けるのは想像力や創造力ではないか…と推測を働かせると、タイトルにある構想力(想像力)と結びつく。そして想像力としてのファンタジアと創造力としてのインゲニウムは記憶としてのメモリアと共に知性の第一作用に属し、感覚的トピカがその知性の第一作用を統括するとされているのだから、こうしたまとめ方も無茶というほどではないかもしれない。
正直この本はお勧めできる本ではないが、こうした妄想を起こさせただけでも、私にとってこの本を読んだ価値はあったのかもしれない。

*1:ただしp.88の引用を見るとこの解釈は無理がある気もするが…。とはいえ、真偽の既に分かった命題を文献の中に探すという逆の道筋も想定すれば無茶苦茶とまでは言えない解釈かもしれない