金子洋之「ダメットにたどりつくまで」の簡潔なレビューとちょっとした批判

ダメットにたどりつくまで (双書エニグマ)

数学における反実在論の解説としては良質な、中級以上向けのダメット哲学への入門書

日本を代表するダメット研究者による、日本語で読めるおそらく唯一のダメット哲学の解説書。ただし、あとがきにもあるように初心者向けの入門書ではなく分析哲学にそれなりに慣れた人向けの本。その上、数学における反実在論が議論の中心になっているので、副題から反実在論一般への解説を期待すると肩透かしを食らう。その辺りに注意しさえすれば良質なダメット本となっている。
この本は基本的には悪くない本だとは思うのだが、ダメットや反実在論について書かれた本だと素朴に思って読むと困惑する羽目に陥る。この著作の中で白眉に当たるのは第一章のフレーゲ論と第二章の直観主義数学論だ。これらの章はどちらも著者の得意な数学の哲学にテーマが限定されているせいもあって、とても分かりやすく説明されていて、この二章だけでもこの本を読む価値はある。だが「はじめに」を読むと、数学における反実在論の話はより一般化された言語における反実在論の話をするための準備だと思ってしまう。実際に第三章以降はダメットの反実在論を一般的に説明するという構成にはなっている。しかし第三章以降を読むと、一般化された言語における反実在論の話をしているはずなのに、出てくる例が数学や論理学による例ばかりで少々違和感を感じる事になる。挙句に最後まで読み進めてみると「反実在論にしても、ここで考えられたのは数学の文脈にかぎった反実在論の可能性だけであって」(p.219)とあって、えっ!そうだったの?と面食らう羽目になる。ダメットの言語における反実在論についての解説を期待して読み進めていた身からするとまさに肩透かしにあった気分だ。
数学の哲学に関する最初の二章が明瞭に書かれていて素晴らしいだけに、第三章以降のダメットの反実在論に関する三つの章には頭を悩ませるしかない。あちこちで議論が省略されていて何でそんな事が言えるの?みたいな事も多いが、その原因の一つはそもそも言語の話なのか数学や論理の話なのかがよく分からなくなるせいもある。またきちんと説明せずに話を進める事も多いので、例えばそこで言及されている真理条件意味論がなんなのかがよく分からなくなり読む方は混乱してくる。しかも元々の構想にあった「証明論的意味論」にまでたどり着かないから、結果としてダメットの意味理論がどんなものなのかを直接的に描いた記述はないので、読み終わってもモヤモヤ感が残ったままとなる。
これは数学の哲学に関する本なんだと割り切ってしまえば良い本だと思うし、言語に関する反実在論についてはお世辞にも分かりやすいとは言えないが丁寧に読めば得られるものは多い。どうせ日本語で読めるダメット本は他に選択肢がないのだから、興味があるなら読んでみるのも悪くないと思います。

もう少し詳しく感想を述べると…

数学の哲学について書かれた最初の二つの章は本当に素晴らしく、それについて詳しくもない私には特に述べることはない。特に第二章のブラウワーの直観主義現象学的かつ神秘主義的であること(数学は心の中で体験=構成されるものである)は知らなかったので感心してしまった。しかし数学の哲学だけを扱ったこれらの章を越えると、分析哲学に慣れた私でも??となってしまう所の多い微妙な章が続く。特に論理の改訂や分子論的言語観を論じた第三章は躓きの元で、実際に「終わりに」(p.220)では議論が錯綜する原因はダメットの改訂主義にあるとある。第三章は適当に読み飛ばして次からの反実在論を直接的に論じた第四章以降にさっさと進んだ方がいいかもしれない。
とはいえ、数学について扱った前半の二章はまだしも、後半の三章は一読で分かるとは私には思えないので素直に再読するのをお勧めします。私自身も再読したがそれを勧める理由は、内容が分かりにくいせいもあるが、それよりも用いられている言葉の意味が(説明が遅れるせいもあり)一読では分かりにくい事の方がきついかもしれない。例えば真理条件意味論という言葉は多用されるキーワードだが、デイヴィドソンのとは異なる真理条件意味論への参照が多いのだが、そのくせ今参照しているのがどんな真理条件意味論なのか必ずしも明示されないので初読時には混乱する可能性が高い。一般的な言語の話かと思ったら出てくる例が数学ってこともよくあって頭を抱える羽目にもなる。
もう一つ注意すべき点は、この著作ではダメットの標準解釈とされるものが批判対象となっていることだ。それ自体はいいとしても、その割に標準解釈に代わるダメット解釈が提示される訳でもない。レビューでも言及したようにこの著作では始めの構想と違ってそこまでたどり着けなかったようだが、それが故に読み終わってもダメットをどう理解したらよいかがはっきりしないままになってしまう。それでなくても過去に関する反実在論やパトナムの反実在論など言及されていない話題もまだまだある。それにしてもダメットの代表作「形而上学の論理的基礎」が訳される可能性が少しでもあるかどうかさえ分からないなぁ〜*1

ダメットへの標準解釈(行動主義的解釈)はやっぱり正しいと思う

この著作の第三章は最も出来が悪い*2ので無視することにする。反実在論について扱った第四章と第五章は第三章に比べればマシな出来なのだが、何度か見返している内に問題が見つかったのでそれを指摘しておこう。
著者の結論は簡潔に述べると、ダメットの意味理論は正当化可能性によって成り立っている、と言うことだ。しかしこの結論を前提として認めても、著者が執拗に攻撃するダメットへの標準解釈(行動主義的解釈)が間違っているとは結論できない。おそらく著者は行動主義というのを正しく理解していないように思える。例えば終わり近くに「ダメットの表出要求を行動主義的なタームによる記述への単なる還元とするのは完全に誤りであり。それはもっとダイナミックな正当化プロセスを含むものと解釈されなければならない」(p.214)とあるが、ダイナミックな正当化プロセスそのものが行動として表出されると考えればよいのであり、正当化可能性が行動主義と排他的な関係である訳ではない。ダメットによるクワイン批判(p.168)も行動主義と直接に関係がある訳ではなく、単に感覚刺激に同意・不同意する傾向性ばかりに注目するクワインへの批判にすぎないのであって、それ以外の行動(例えば正当化行動)までは話題になっていない。著者の行動主義への理解が狭いせいで、議論が偏っていてしまっている。
マクダウェルによるダメット批判(p.157-)への著者の理解もズレている。マクダウェルフレーゲ的な意義を心理的状態として理解してるのは標準的な考え方で、宵の明星が意味(指示)している金星とは別にその意義(概念)を発話時の心理的状態として理解できると考えてるだけだ(双子地球論も参照)。マクダウェルはダメットによる意義(概念)の理論と(発話行為論的な)力の理論との分離を批判する上で、一度機能主義によって心理的状態を導入した後で、その心理的状態を取り除いて行動主義化することによって、心理的状態によって表出された行動だけに注目させて、表出された行動だけを意義の側面と力の側面に分離することは不可能だと批判しているのだ。もちろんマクダウェルは知覚の概念主義者なので、知覚の概念的内容をフレーゲ的な意義だと考えているのだ。その後(p.160)で説明されているのもダメットの誤解に対するマクダウェルによるデイヴィドソン擁護であり、デイヴィドソン的な真理条件意味論がダメットの表出の要求を満たしうると主張しているのである。デイヴィドソンに関してそれなりに知識を持っていればこの主張が正しいことは比較的すぐ分かる。どうも著者は自分で説明しておきながら実は古典的な真理条件意味論とデイヴィドソン的な真理条件意味論の違いをよく理解していないじゃないかと勘ぐってしまう。
とはいえ、著者のダメット理解が間違っているとは特に思えないので、丁寧に批判的な読み方をすれば得られるものは多い。実は反実在論についてはいろいろ言いたいこと*3もあったのだが、思ったより批判が長くなってしまったのでやめておく。

ダメットにたどりつくまで (双書エニグマ)

ダメットにたどりつくまで (双書エニグマ)

*1:現在思想系の凡庸な作品が未だによく翻訳されるのに、分析哲学の古典的作品がほとんど翻訳が進まない現状はどうにかならんのか!!

*2:この著作の第三章はともかく訳が分からない。私の個人的見解ではこの章はなくてもよかったのではないかとさえ思う。まぁ分子論的言語観を無視する訳にはいかなかったのかもしれないけれど、この章が分からなくてもダメットの反実在論の理解にはそれほど支障はないように感じる。この章の内容に触れると、まず演繹の正当化という話題が何故必要なのか(読み終わってもても)分かりにくい。分子論的言語観に関しても、部分式性質という数学用語で説明されているが、そもそも言語が部分式性質を持っているかどうかが分からない。これが比喩に過ぎないとしても全然分かりやすくない。改訂主義についてもクワイン流の全体論とダメットの分子論とも優越を単独で判断できないのだし、その後の全体論批判もあまりに抽象的な上に錯綜していて分かりにくい(同じく全体論批判なら私の愛読書でもある「意味の全体論―ホーリズム、そのお買い物ガイド」を読む方が批判が具体的な分だけよっぽど参考になる)。分子論的言語観の特徴である保存拡大の説明では、出される例が論理結合子「そして」の付加であり、この例から言語への応用を考え出すのは難しい。はっきり言って、反実在論と分子論は必然的に結びついてる訳ではない(例えばパトナムの反実在論を参照)のだから、分子論を説明するこの章はいらなかった(が言い過ぎなら反実在論の説明を充実させた上でもっと後回しにすべきだった)と思う。

*3:例えば反実在論における認識論的欲望と相対主義的結論とか言語哲学形而上学の分岐点を探るとかフレーゲ的な意義をいろんなとこに位置づけようとか