チャールズ・テイラー「自我の源泉」を読んでみた(ただしお勧めはしない)
「自我の源泉 ?近代的アイデンティティの形成?」
近代批判的な思想史を描いたテイラーの代表作だが、無駄に長大なので読み切るには覚悟が必要
政治哲学者サンデルにも影響を与えた、共同体主義者の一人とされるチャールズ・テイラーの代表作。「距離を置いた自我」を生み出した近代哲学への批判を主題として西洋思想史の本。内容は悪くないのだが、それに比しては分量が長大過ぎる。たとえ思想史に興味があっても読み切るのはかなり大変。同じような知識を得たいなら他の良い本を読むべきで、あくまでチャールズ・テイラーの思想に興味がある人向けの著作。ただし、これを読んでもテイラー思想の共同体主義としての側面は(少なくとも表面的には)分からない。
以前チャールズ・テイラー思想の解説書「テイラーのコミュニタリアニズム」を読んで(→レビュー)以来、気になっていたのでこの代表作に手を出した。結果としては、チャールズ・テイラーの思想がハイデガー哲学を基盤にしていることを確かめられたのは良かったが、分量が無闇矢鱈に長い割には内容的には自分が元々持っている知識を越えるところがほとんどなくて、労力を無駄に費やした感が強い。かといって、この本が主題にしている知識をこの本で得るのは無駄があまりに多い。余程のマニアか資料として以外にはこの本を読むのはお勧めできない。
内容について
チャールズ・テイラーはこの著作で近代的な自己がいかにして作られたのかを西洋の思想史を辿って明らかにしている。その上でキーワードになるのが「距離を置いた自我」である。距離を置いた自我とは、内面がその外側とは隔絶されている自我であり、サンデルの負荷なき自我の源ともなった考え方だ。距離を置いた自我がデカルト以降の近代哲学によって形成されたことをこの本は描いている。距離を置いた自我という考え方はハイデガー哲学(例えば物を対象化することへの「存在と時間」での分析)から得られたものだと分かる。デカルト以降の近代哲学は内と外を分離することで主観と客観という近代的な対立が生じたのだ。第二部はこうした主観主義と客観主義の対立を生み出した近代哲学の歴史を描いているが、正直な所これは今ではよくある話題でそれ自体にオリジナリティーはそれほどない。
それに対して第四部で話題になっているのは、こうした距離を置いた自我を生み出した啓蒙主義とそれに対抗して現れたロマン主義との対立の歴史なのだが、これもよくある話でこの本にオリジナルな所は大してない*1。最後の第五部は持ったモダニズムを扱っている。ここまで来ると、テイラー自身は評価しているモダニズムが反ロマン主義的な側面を持っているにも関わらず、ロマン主義とモダニズムはに共通の特徴である表現的な特徴(表現主義expressivism)*2を見出している。モダニズム芸術の顕現(エピファニー)的特徴がロマン主義の表現的特徴を受け継いでいるのは確かである。要するに、テイラーはロマン主義やモダニズムの芸術が持つ表現的な特徴を指摘するためにこの本の後半を書いているのだが、それが前半の近代哲学批判とどう関わるのか。そのヒント(とテイラーの本音)はまだ言及していない第三部に隠されている。
第三部は日常性の肯定と題されているが、実の所この部の話題の中心は宗教である。つまり宗教改革以降、宗教的な側面が後退して世俗性が前面に押し出される過程を描いている。それはハチソン辺りを源とするスコットランド啓蒙主義(ヒュームやアダム・スミス)の倫理学に倫理学に典型的な形で表れており、そこでは道徳の源泉は共感という内面へと縮小してしまったことが描かれている。他方で近代が生んだ理神論がやがて無神論的な唯物論へと向かってしまう過程も描かれている。こうした点では、第三部は主観-客観の対立の誕生を描いた第二部の近代哲学批判の続きとなっている。そう思ってこの本の全体構成を見ると、前半は近世において宗教的な超越性(全体性)*3が失われる過程が描かれ。後半はその失われた超越性(全体性)が表現(顕現)的な芸術に求められる過程を描いているように見える。とはいえ、こうした近代芸術への賛美でさえも後期ハイデガーを思わせる所があり、この著作のハイデガー的な基盤は一貫していると分かる。
テイラーは宗教や芸術に体現されている超越性(全体性)を現代に蘇らせようとしているのであり、それはハイデガー的な哲学を受け継いだものでもある。ただし同じくハイデガー哲学を受け継いだはずのフランス現代思想とはその受け継ぎ方が異なるのは、テイラーのデリダやフーコーへの批判から分かる。デリダやフーコーの思想はハイデガーからのネガティブな側面の継承でしかない(ただし晩年フーコーは別扱いな所(p.88)を見ると、晩年フーコー好きな私には事情が分かっているのかもと思わせる)。しかし、距離を置いた自我を生み出した近代思想史を描ききっただけのテイラーが彼の批判するフーコーとどう違うかは怪しい。テイラーがこの著作で描いたのはあくまで思想史であり、身体論的な後期フーコーの生権力とも違うばかりか、晩年フーコーの生存の美学からも遠いように思える。テイラー自身はもっとポジティブな側面を求めていることは、注でハイデガーと並んでメルロ=ポンティやマイケル・ポランニーに好意的に言及しているのを見ても分かるが、偉そうにデリダやフーコーを批判できる程の作りにこの本がなっているとは到底思えない。そもそも超越性(全体性)はネガティブにしか言及できないのであり、(初心からの)ハイデガーの挫折(?)もそこに原因があったはずだ。
チャールズ・テイラーが共同体主義者と呼ばれるようになったのは歴史的な偶然(サンデルへの影響)であって、本当は宗教的・芸術的な超越主義者なのだと分かる。テイラーの語りたい善とは本当は道徳的な善というよりも、宗教的な善なのだろう。それにしても、日本でこうした考え方が理解されないのは、西洋の哲学や芸術の知識が欠けてることは努力で補えるのでともかくとして、日本ではユダヤ-キリスト教の伝統がよく分からないことも一因ではあれど、それと同時に西洋の詩が分からないせいでもある。この著作でもモダニズムの詩からの引用があるが、原文ならせめてその片鱗だけでも味わえるが、日本語に翻訳されるとその味わいのほとんどが失われる。ましてテイラーの示す詩の顕現(エピファニー)性は翻訳ではほぼ完全に失われる。つまり根本において、日本の人は西洋について宗教だけでなく詩も分かっていない(分かり得ない?)ことが、こうした超越主義的な思想への理解*4を阻んでいるのかもしれない。
- 作者: チャールズ・テイラー,下川潔,桜井徹,田中智彦
- 出版社/メーカー: 名古屋大学出版会
- 発売日: 2010/08/31
- メディア: 単行本
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*1:この翻訳の解説ではロマン主義の特徴がそれまでに描かれてきた主流の近代哲学の特徴と一緒にして近代的アイデンティティの特徴としてまとめているが、対立する特徴をこのようにまとめるのは間違っている。明らかにテイラーは主流の近代哲学を批判してロマン主義を擁護しているのだ
*2:これはテイラー独特の用語で芸術史上の表現主義expressionismとは別物
*3:ちなみにレヴィナス的な全体性と超越性の対立図式はここでは関係ない。レヴィナスの図式はむしろ有限性と無限性の対立と関連しているが、ここではその辺りのややこしい話はしない。テイラーはレヴィナスに対してはむしろ好意的だ
*4:日本では超越主義的な思想と結びついているはずの神秘思想や身体論に夢中になる人をよく見かけるが、その割に理解が浅く感じられるのはこの辺に原因があるかもしれない