認識論的な整合主義を擁護できる形に整えてみる

分析的な認識論にはよく議論される論点が幾つかあって、内在主義vs外在主義や基礎づけ主義vs整合主義といった説の対立が争点になる。これらの説の内で、内在主義の立場は外在主義以外の説と一緒にできるので、基礎づけ主義と外在主義と整合主義の三つが認識論の主な説として導かれる。「認識的正当化―内在主義対外在主義」でもバンジョーが論文でそう認識論の説を分類しているので一般的な分類法だろう。しかし、認識論の本を読むと基礎づけ主義と外在主義が支持されることはあっても、整合主義が支持されることは少ない。現代でもセラーズやデイヴィドソンといった錚々たる哲学者が提出した説がなぜこんなにも支持されることが稀なのだろうか。
整合主義に対する最も典型的な批判としては、どんなに現実と関係のない荒唐無稽な話でも辻褄さえ合っていれば整合性が保てるので真になってしまうがそれは問題がある…という批判がある。元々は整合主義を支持していたバンジョーでさえ「整合主義をとる主な動機は、純粋に議論上のものである。それは基礎づけ主義を避けるということであり、整合主義そのものの中に、第一印象として正しいと思わせるような実質は存在しない」(「認識的正当化」p.52)と言い切って、その後で同じような批判を繰り返している。しかし、このような批判は本当に正しいのだろうか。
問題点は整合主義は現実の経験としての感覚経験と無関係に成立するとするのが正しいのかどうかだ。他の立場である基礎づけ主義であれ外在主義であれ、その説の中に現実の経験としての感覚経験は何かしらの形で含まれている。ただ基礎づけ主義はそれを気づかれるものだとし外在主義はそれが信頼できる過程や因果関係によって成り立っている(つまり意識される必要はない)としている点が異なっている。それなのに整合主義だけが現実の経験としての感覚経験とは無関係な説だとするのはどうも奇妙だ。
バンジョーは「認識的正当化」で観念論と整合主義を安易に一緒にして分類している(p.51)。しかし基礎づけ主義と整合主義を調停させたと主張するマクダウェルこそがまさに観念論に相応しい。マクダウェルはセラーズによる所与の神話批判とデイヴィドソンの整合主義を組み合わせて知覚に非概念的内容を認めない概念主義の立場を提出している(「心と世界」を参照)。この立場は主体の持つ概念体系によって限られた概念的対象だけを感覚経験に認めており、その主観主義的な側面がヘーゲル的な意味で観念論的である。しかしここでのマクダウェルの行なうセラーズの援用は部分的なものであり、セラーズ自身の見解とは異なるようにも思われるが、これが整合主義と感覚経験を両立させた考え方なのは確かだ。
ではセラーズはどうか。セラーズの代表作「経験論と心の哲学」は所与の神話批判で有名だが、マクダウェルが参照しているのは主にこのセラーズの論文である。しかし知覚に非概念的内容を認めないマクダウェルの立場はセラーズのこの論文の中の印象を主題にした最終章を無視する事によって成立している。この章を読む限りではセラーズは単に非概念的内容を認めなかったとは言い切れず、誠実にもこの論文にイントロダクション(はじめに)を書いたローティはそのことに気づいている(邦訳にある序文の注10を参照)。『適切な問いは、むしろ、「感覚能力をもつ有機体に関する微小レベルの理論において、印象に関する目に見える物体レベルの概念に対応するものは何であるのか」である』(「経験論と心の哲学」p.132)。もちろんこの一節だけではセラーズが知覚に非概念的内容を認めたかどうかは明確ではないが、概念や個物より以前の微小レベルを認めていることだけは確かだ。
それにしても、目に見える物体レベルの概念より以前の微小レベルの理論というのは、理解できる直観を越えた物自体というカントの図式化に似ている*1。ただし微小レベルの理論は理解可能なはずな点で物自体とは異なるので、今一釈然としない所はある。ともあれ、そうした余計な物自体や微小レベルの理論を拒否した所に成立するのがヘーゲルマクダウェルの観念論である。ここで知覚されるされないという点にはこだわらず、概念的内容と非概念的内容(または物体レベルの概念と微小レベルの理論)の二層を分けて考えよう。マクダウェルは(ヘーゲルにおける物自体のように)非概念的内容を全く認めない。セラーズは位置づけはどうであれ非概念的内容のようなもの(微小レベルの理論)を何かしらの形で認めており、それが外界に存在すると考えているようだ。
ここで注意すべきはセラーズは整合主義の代表的な論者である事である。セラーズは既にした引用からも分かるように少なくとも概念が現実の経験としての感覚経験とは無関係とは考えていない。マクダウェルもセラーズも外界が感覚経験から超越論的に構成されることを認めているおそらく外在主義のような独断的な超越的実在論でしかありえない立場にはカント同様に批判的な立場に立つであろう。興味深いことに「認識的正当化」の論文の最終節でバンジョーが行なっている外界の現象学的構成は、セラーズらの外界の超越論的構成と議論の点で一致する。つまり基礎づけ主義と整合主義は超越論的観念論において出会う事ができるのである。ただし基礎づけ主義の場合は、概念的内容と非概念的内容の間に見事な対応関係を見つけようとする所が基礎づけ主義的であり、概念的内容と非概念的内容の間を全体論的に結びつける相対主義気味*2な整合主義とは異なる*3。整合主義は相対主義気味であるが故に絶対的な真は認めない(如何なる命題も真偽を修正されうる)。このような整合主義の考え方は、絶対的な真を求める典型的な認識論とは実は馴染まないのであり、だからこそ整合主義は基礎づけ主義や外在主義と同等の立場にはなれないし、なる必要もない。
こう考えてくると、やはりクワインは整合主義の現代的な先駆者であったと分かる。クワインが感覚刺激による真偽を認めていたのは彼が整合主義であった事に反しない。ただしクワインはそれらを一つにまとめるためのアイデアを欠いていたのも確かだが。そういえばローティは認識論いらない説を提出した「哲学と自然の鏡」でセラーズやデイヴィドソンを重要な意味で参照している*4。ならば、整合主義と認識論いらない説と認識論の自然化は互いに結びつきを持っている可能性がある。スティッチは認識論いらない説と認識論の自然化を結び付けた実験哲学者だが、整合主義はそれらの結びつきをさらに強力にできる接着剤かもしれない。

*1:ここでは議論上の図式化として便利なので微小レベルの理論と物自体を同一視した。しかし、実在を豊かな性質の宝庫とするスコトゥス実念論と物の集まりとしか見ないオッカム的唯名論というパース的な対立を持ち込めば、微小レベルの理論と物自体に別の対立を読み込む事もできるが、その話はここでは省略

*2:ここで相対主義といっても、共通部分を一切も持たない概念枠(デイヴィドソン)による強い相対主義ではない。とはいえ、そこまで強い相対主義ではないにしても、整合主義の中でも相対主義のあり方は異なるはずだが、その議論はここではしない

*3:例えば砂漠にオアシスが見えた時に、それが蜃気楼であると分かっているかどうかで、実際にそこにオアシスがあるかどうかが確信される。もしかしたらそれが蜃気楼であると分かった上で、周りの光の具合などから実はどこにオアシスがあるかが分かるかもしれない。整合主義においては、たとえ見えることが信念を正当化するとしても、そこには何かしらの学習や推論が働いていることになる。「経験論と心の哲学」の「3見えるの論理」でのネクタイの色名に関する議論も参照

*4:ただローティは感覚経験による正当化を認めない悪口(辻褄さえ合えば良い)で言われる整合主義に見えるが、その問題はここでは取り上げない