競争的民主主義の市場とのアナロジーによる擁護のどこが問題なのか?

フィシュキンの「人々の声が響き合うとき : 熟議空間と民主主義」を読んで以来、民主主義の制度論に興味を持っていたが、機会があって今度は熟議民主主義のライバルとされる競争的民主主義を擁護するシャピロの「民主主義理論の現在」を読んでみた。
「民主主義理論の現在」の全体構成は前半が制度論で後半は民主主義の現状分析となっており、後半も悪い内容ではないがやはり前半の方が興味深く感じた。全体の感想としては民主主義論として悪くない本だけれど、フィシュキンの本より古いせいか制度論としては物足りなさを感じた。熟議批判が物足りないのはフィシュキンの本が手に入る今となってはしょうがないけれど、競争的民主主義についても(量的にも質的にも)物足りないのはシャピロが代表的な論者なだけにがっかりした所はある。特に競争的民主主義の主要な擁護理由である市場とのアナロジーには個人的にはかなり問題に感じたので、それについて論じたい。

なぜ民主主義の制度論が必要か?

まずは民主主義の制度論に入る前に、そもそもなぜそのような議論が必要かについて軽く論じておきたい。
政治にとって大事なのはどのように政治的決定を行なうかである。政治的決定を行なうための主な方法には大きく分けてエリート支配と多数決の二つがある。歴史的に見ると、君主を始めとする少数の支配者が多数の民衆を支配するという政治方式が多く採られていたが、支配者が自らのの利害に囚われてとんでもない政治的決定を行なう可能性の高さから、民衆による支配である民主主義が生じた。しかし、民主主義といっても人々が感情に駆られて短絡的な政治的決定に走ってしまうと、例えば二十世紀の全体主義のようにとんでもない状態になる。これはトクヴィルの懸念した多数による専制であり、民主主義の落とし穴である。
つまり、基本的な政治制度として民主主義を採用するとしても、民主主義なら何でも良い訳ではなくて、とんでもない政治的決定に陥らないマシな民主主義制度が必要なのだ。そうした新たな選択肢としての民主主義制度として提案されているのが熟議民主主義や競争的民主主義である。

重要なのは誰が決定するかではなくどのようにして決定するかである

ここまでの議論で要点となるのは、真っ当な政治的決定において大切なのは誰が決定するかではなく、どのように決定するかである。もちろんエリート支配でも良き政治的決定を下す事はできる。しかしそれはそのエリート達が信頼できる限りであるが、彼らによる密室の決定を信頼するのはかなり都合の良い考え方である。まだ階級制が成り立っていて、民衆に対する責任を感じる高貴な精神を持った貴族的人物がいるのならまだそれもありうるかもしれない。しかし、そんな都合の良い人物を生み出しうる階級制など(たとえあったのだとしても)消滅しつつあるし、そもそもそんな都合の良い階級制があったとしてもそのエリート達の政治的決定を信頼しつづける事ができると仮定するのは無茶だ。利害を超越した高貴な精神を持ったエリート(政治家や官僚)などというご都合主義の仮定を維持しつづける事はできない。
現代の民主主義の制度論において大事なのは、できるだけ真っ当な政治的決定を得られるような過程を制度の中に盛り込むことであって、決定方法はあくまで過程に伴う二次的な問題であることだ。シャピロは著作の中で集計(集約)的民主主義と熟議民主主義を別々であるかのように扱っているが、フィシュキンが指摘するように集計と熟議は相反する考え方ではない。集計は決定に関する概念であり、熟議は過程に関する概念であり、それらを両立させることは熟議民主主義に反しない。同様にして共通善や合意(コンセンサス)はありえないとするシャピロの熟議批判に対しても、フィシュキンの述べるように熟議民主主義にとって合意(コンセンサス)は必需品ではない(もちろん共通善の存在も無理に想定する必要はない)。
様々な意見や議論に接することでよりマシな決定に向かっていくという過程が熟議民主主義の肝であり、それは様々な意見が互いに争うことでマシな決定に向かっていくという過程が競争的民主主義の肝であるのと、決定へと至る過程が大事な点で同じである*1

競争的民主主義ってどんなもの?

最初に挙げたシャピロの「民主主義理論の現在」では前半の制度論のうち、全三章中の二章が熟議批判に当てられ、残りの一章で競争的民主主義が(不十分ながら)論じられている(ただし同章の半分は司法と政治との関係についての議論)。フィシュキンの本が出ている今となってはシャピロの熟議批判は(既に指摘したように)見当違いに感じられる部分も多い。本当に熟議民主主義批判として最も強烈なのは、フィシュキンも懸念しているように、サンスティーンによる集団分極化現象という社会心理学の成果への言及なのだが、熟議民主主義の検討はこの論考の目的ではないのでそれは省略する。これから問題にするのは競争的民主主義の擁護者であるシャピロによるその擁護理由である。
熟議を信用してないシャピロは競争的民主主義を提示する。同じように熟議を信頼せず異なる見解が争うことを望む点ではムフに代表される闘技民主主義と考え方では一致するが、理念的にとどまる闘技民主主義とは異なり、競争的民主主義には具体的な制度論がある点で大きな利点がある。つまり様々な政策を提示する政党が選挙民からの支持を目指して争うような民主主義ならば、よりマシな政策が選ばれる可能性が高いとしている。シャピロは人々が熟議を行なうための理性を持っているという高い要請に頼らず、代議制の中でマシな政治的決定が選ばれることを期待する点で(理想主義的な熟議擁護者よりも)リアリストである。
それではシャピロの提示する競争的民主主義がどのような制度であり、それをどのように擁護しているのだろうか。競争的民主主義の源はシュムペーターの「資本主義・社会主義・民主主義」という著作にある。基本的な考え方は構造化された権力構造の方が無政府状態や権力独占よりマシだというシュムペーターの認識にある。競争的民主主義では、異なる見解を持った複数の政党が権力を目指して争う中でマシな政治的決定が為されるようになるとした。この競争的民主主義の定義から分かるように、人々が自らの代表を選ぶという現代民主主義の基本である代議制が採用されているが、その競争的性格から必然的に多党制が前提とされている。その結果として、現代民主主義の多数を占める二大政党制は十分な競争が行なわれ得ないとして批判されている。多党制であるためには政党に投票する比例代表制でなければならないなどの議論もあるが、シャピロの著作では多党制に関する議論はそれほど中心的には論じられていないので省略。むしろ問題は競争的民主主義を擁護するための議論にある。

なぜ競争的民主主義は市場とのアナロジーでは擁護できないのか?

競争的民主主義を擁護する議論としてはシュムペーターによる市場とのアナロジーが挙げられる。つまり、市場において消費者に自分の商品やサービスを買ってもらえるように複数の企業が競争していく中で企業が淘汰されるように、複数の政党が有権者の支持を得られるように競争していって淘汰されれば良いと考える。おそらくこれこそが競争的民主主義を擁護する最大の(唯一の?)議論である。これに対しては、もちろんシャピロの著作でも競争的民主主義(シュムペーター主義)への批判は検討されているが、それはあくまで市場とのアナロジーが正しいことが前提とされた議論である。しかし、私がこれから議論するのは、政治に対する市場とのアナロジーはうまく成立しないことである。

シュムペーターは、政治的競争と経済的競争との類似点を強調することにより、競争的理念をはっきりと効果的に示した。彼は、有権者を消費者のアナロジーとして、政党と政治家を企業に対応するものとして、政治家の求める票を利潤の代用品として、また、政府の制定する政策を政治的財貨・サービスとして考えるべきであると示唆した。

  • シャピロ「民主主義理論の現在」p.87-8より

シュムペーターによる選挙政治の市場とのアナロジーは一見うまく行っているようにも見える。しかし、真面目に検討すると選挙政治に市場のような淘汰が働くことは難しいように思われる。それはどういうことか?
批判の要は「政府の制定する政策を政治的財貨・サービスとして考える」とする節にある。市場においては複数の企業にそれぞれの経営者がいて、それぞれの企業から商品やサービスが生産されると考える。しかし競争的民主主義の選挙政治においては、政党は複数あるかもしれないが、政治的財貨・サービスを生み出す政府は一つしかない。だから、市場においては消費者が複数の(同種の)商品やサービスを直接に並行的に比較できるのに対して、選挙政治においては(同種の)政策を直接に並行的に比較する事は実はできない。
ここで注意すべき点は、市場においては経営行動の成果としての商品やサービスを直接に比較できるが、選挙政治においては政府は一つなので実際に実行された政策は基本的に一つであり、政治行動の成果として採用された政策の結果を直接に平行して比較できない。選挙政治において直接に平行して比較できるのはどのような政策を提示しているのかという言論だけであり、政治行動(によって採用された政策)の結果ではない。これでは経営者の提示する経営方針だけを見てどの企業の商品やサービスが良いかを選ぶようなものだが、それだけでは市場はとてつもなく(淘汰による調節の)効率が悪くなってしまう。もちろんこれは政策を実行する政府が一つだから起こる問題であって、ノージックが「アナーキー・国家・ユートピア―国家の正当性とその限界」で提示する複数の結社が共存するメタ・ユートピアでは市場とのアナロジーはもう少し成立する余地がありうるが、それは競争的民主主義が想定する状態ではない。競争的民主主義における競争とは、複数の政党の間での競争であって、複数の結社の間での競争ではない。

結論

競争的民主主義には他にも独占や分断などによる批判もあるが、そもそも根底となる市場とのアナロジーに問題がある点が致命的である。たとえ競争的民主主義における競争の意義を認めるとしても、市場に比べると恐ろしく(淘汰による調整の)効率が悪いので、政策の選択という点ではあまり多くは期待できない。競争的民主主義の市場とのアナロジーがうまくいかないとしても、競争的民主主義を擁護する理由が他に全くなくなる訳ではないかもしれないが、主要な擁護理由が失われることは大きな打撃となるはずだ。

*1:現代の民主主義の制度論の代表的な説として他に、フィシュキンは(既に挙げたエリート支配も含めて)熟議と競争の他に参加民主主義も挙げているが、人々がただ政治に参加すれば良いとするのは、(もっと説得力がある参加民主主義論が出てこない限り)多数のよる専制を免れないのでここでは特には取り上げない。