中畑正志「魂の変容」の論文を批判的に検討してみる(修正版)

魂の変容――心的基礎概念の歴史的構成

出来にムラはあるが、現代哲学と古代中世の哲学史を結び付けた試みとしては興味深い

古代中世の哲学史英語圏の現代哲学と関連付けながら論じた試みとして興味深い論文集。どの論文も最終的には著者の専門であるアリストテレスを論じているが、単なるアリストテレス研究には止まらない論文も含まれていて、それら論文は比較的に面白い。ただし比較的面白い論文であっても、議論の繋がりや結論があまり明確ではないので素直には褒められない。
以前たまたま古本で買った思想誌に載っていた論文が面白くて著者の名前は覚えていた。今回、機会があって著者のこの論文集を読んだのだが、雑誌で読んだときほどの面白さは感じなかった。この論文集に収録する上で加筆修正したせいかとも思ったが、基本的な論拠や話の流れには違いがないはずなので、なぜそんな感想を抱いてしまったのか困惑してしまった。その理由を問うのは面倒だからやめて、この論文集そのものを評価してみたい。
個々に評価すると、序と一章は書きたい事が分からないので面白くない、三章と四章はプラトンアリストテレスにおける感情や想像を論じていてそれなりには興味深いが、主張したいことが分からないので面白いとまでは言えない。それに比べると、二章と五章は現代哲学への参照といい古代や中世に及ぶ幅広い哲学史的な議論といい確かに面白い論文だが、あっちこっちに向かった話がうまくまとめられていないので、読み終わっても多少のモヤモヤ感が残る。
この著作で読む価値があるのは、私が以前に雑誌で読んで感激した論文を書き直した、オブジェクト概念の意味が逆転した歴史を追った(実は逆転してなかった?)二章「オブジェクトとの遭遇」と、チザムやブレンターノからアクィナスやアリストテレスへと遡って志向性について論じる五章「志向性」である。ただし、五章については個々の議論は別個に見れば興味深いのだが、全体の流れで見ると奇妙な所(志向的内在は知覚にも成り立っているのか?)があるので、そこは注意して読んだ方がいいと思われる。
既に指摘したように、この著作で本当に興味深く読めるのは二つの章だけだが。それらでさえ書き方が明瞭でないために言いたい事がよく分からないこともよくある。それでも、現代哲学と哲学史を結び付けた野心的な試みとしての価値は高いと思います。

「志向性」論文の議論展開のどこがおかしいのか?

既に述べたように、以前雑誌で読んだときに比べると、この著作にある書き直された同名論文「オブジェクトとの遭遇」は印象が弱くなっていた。修正としては枝葉を刈って少し加筆した程度で基本となる議論展開には違いがないので、自分で考えてもおかしな話だ。私の推測では、枝葉を刈って確かに読みやすくはなったが、それが原因で元の論文には感じられた(新しい哲学への可能性に対する)熱意が多少失われてしまったのだと思う。とはいえ加筆個所については読んで良かったと思う程度には有益だったので。個人的には微妙な気持ちにはなる。どっちにせよ「オジェクトとの遭遇」はこの論文集の中では最も面白いので、とりあえず(絶讃はできないが)お勧めして構わない。問題はもう一つの読む価値のある論文である「志向性」の章だが、これには論文全体の議論展開に問題があるので、「オブジェクトとの遭遇」程にはお勧めしにくい。
「志向性」の章の全体の展開は、まず志向性を分析哲学に導入したチザムが紹介され、ついでその源となったブレンターノの議論を眺め、そこからブレンターノが参照しているアリストテレスへと話が及び、そのアリストテレス解釈の源のトマス・アクィナス(とその源の新プラトン主義)に向かった後で、あらためてアリストテレスそのものを参照して別の解釈を目指す…といういう流れになっている。こう要約してみると自然な流れにも思えるが、注意して読むとおかしな事に気づく。注目すべきはブレンターノがその志向概念のために参照したアリストテレスへと向かっていく行程にある。
ブレンターノが志向的内在を思いつく原型としてアリストテレスを挙げていて、著者はそれに沿って議論を進めているが、ここがどうもおかしい。ブレンターノはフッサールに影響を与えた現象学の先駆者ともされる通り、ブレンターノも現象を基盤にして話を進める。ブレンターノは現象を物的現象と心的現象に分けて、心的現象の特徴として志向的内在が挙げられている。つまり、存在の有無に関わらず思考や欲求の対象が認められることを指して志向的内在と呼んでいる。ここで注意すべきは物的現象は外界の存在と関連しているのに対して、心的現象は外界での存在とは無関係にその対象が示される事だ(例えばユニコーン)。こうしたブレンターノの議論を紹介した後で、著者はブレンターノが志向性の節に付けた注に注意を向ける。その注で志向概念の先駆者としてアリストテレスが挙げられている。その源となったアリストテレスの三つの見解が示される。

(a)感覚されたものは、感覚されたものであるかぎりで、感覚する主体の内にある。
(b)感覚は、感覚されたものを、質料(素材)抜きで受けとる。
(c)思考されたものは思考するものの内にある。

  • 「魂の変容」p.194より(ただし原語は省略)

議論はこの後で(b)の質料抜きの形相を受けとることに注目して、アリストテレスの感覚論へと話は至る。しかしこの展開は問題がある。そもそもブレンターノが物的現象と心的現象に分けて志向的内在は後者の特徴だとしていたことを思い出そう。ということは、物的現象に当たるのが感覚知覚であって、心的現象はそれと区別されているのではないのだろうか。実際にブレンターノが志向的内在の例として挙げるのは表象や判断や愛や憎しみや欲求であって、感覚知覚は直接には含まれていない(p.190の引用)。この章の注23(p.271)では物的現象が色や音などの可感的性質に限定されるかが問題にされているが、これは感覚知覚が物的現象に関連していることを示している。だいたい志向的内在が内在とされるのはその対象が心に内在するからだとブレンターノ自身が書いている(p.190の引用)。ならば、物的現象に当たる感覚知覚の対象が(心的現象と比べて)心には内在しないのでなければ、こうした特徴の説明は意義を持たない。志向的内在が感覚知覚に含まれないなら、この後に展開されるアリストテレスの感覚論は(たとえそれ自体が興味深いとしても)志向的内在とは関係ないことになる。ブレンターノのアリストテレス論から感覚論へと進んでいるだけに、この勘違いには問題がある*1
ここから先は確認できないので推測でしかないが、ブレンターノが挙げたアリストテレスの三つの見解は志向概念の源となった別々の見解だったのではなく、(a)から(c)へと続く論証だったのではないかと思う。なぜなら、志向的内在に直接に関連しているのは思考に言及している(c)だけだからだ。こうしてこの著作でのブレンターノからアリストテレスの中世的(伝統的)解釈へと向かう展開には飛躍がある事が分かった。だとすると、その後に中世的(伝統的)解釈に対する別のアリストテレス解釈へという流れ(感覚論から言語論へ)もそのままで受けとる事はできなくなってしまう。
以上はこの「志向性」論文の最も目立つ問題点だが、それ以外にも細かい所で色々と不親切だったりする。例えばチザムの志向性の話において、それに関連した命題的態度についての説明を一切せずに話を進めるので、読んでいて困惑する。「ブレンターノのテーゼ」も心的状態を物的状態に還元できないと素直に定義してくれない(回りくどい)ので不親切。あと論文の最後で、それまでフッサール現象学にほとんど触れていないのに突然ハイデガーが引用されて挙句にその引用がこれまでの議論とどう関係しているのか分からないとか言い出すぐらいなら、そんな引用はしたかったらせめて注でしてくれと思った。

「オブジェクト」論文に見出されたもう一つの逆転関係

それにしても、志向されるのは思考や欲望の対象(オブジェクト)であると捉えると、「志向性」論文と「オブジェクト」論文には結びつきがありそうだ。ただしブレンターノはあくまで思考や欲求の対象を焦点にしているのに対して、著者はむしろ感覚の対象に一貫して拘っているように思われる。この二つの論文にあるハイデガーからの引用(p.41とp.237)も心的現象(思考された命題)の対象を問題にしているのであって、あくまで感覚知覚の問題ではない。
ところが、著者が問題にしている感覚論にしても、あらためてじっくり読み直してみると今まで気づかなかったおかしな所に気づく。「オブジェクト」論文ではストア派や新プラトン主義の感覚論が論じられているが、その際に現代哲学における知覚の概念論争におけるクワイン的立場とマクダウェル的立場の対立が持ち出されて説明されている。そこで新プラトン主義は非概念的内容を批判するマクダウェルの立場として説明されている。それは新プラトン主義が「感覚器官の受動様態」と「能動的にはたらく魂の力」を分離して、魂が外から与えられた感覚に形相を当てはめるからだとしている。しかしこの分類はどうも違和感がある。マクダウェルは「カントの本来の思想は、経験的知識は受容性と自発性との協同の結果であるというものであった」(「心と世界」p.33)とあるように(カントと共に)心の自発性を認めている。新プラトン主義も著者によって「心はたんに受動的に動かされる訳ではない自発性をもつ」(p.83)として精神の能動性を見出されている。
実はこれでは、新プラトン主義は(著者の想定とは逆に)むしろマクダウェルの批判する立場に近い事になる。マクダウェルは(セラーズも批判する)論理経験主義だけでなく、非概念的内容を認めるガレス・エヴァンスを批判している。その批判は、感覚される非概念的内容に概念という型を当てはめるという考え方が批判されている。著者は「魂が外から与えられた感覚に形相を当てはめる」としてをしているが、これではマクダウェルの批判するガレス・エヴァンスの考え方そのものである。マクダウェルは知覚を概念的内容と非概念的内容に分けられることを批判しているが、著者による新プラトン主義の説明は感覚と形相を分けられるかのようにしか聞こえない点で同じ批判が当てはまる。つまり、(著者の説明するところでは)ストア派も新プラトン主義もマクダウェルの批判対象になってしまう点で同じ穴の狢である*2。。
この「オブジェクト」論文はオブジェクト概念とサブジェクト概念の意味が歴史的に逆転したかどうかを巡る話であったが、その当の「オブジェクト」論文そのものの中に新プラトン主義とストア派に見出した現代哲学的な概念論的な対立関係に問題があったようだ。とはいえ、こうした議論の不備が著者の専門とするアリストテレス解釈にどう影響するのかは明らかではない。まぁ、そもそも「オブジェクト」論文で示される身体化説としてのアリストテレスと「志向性」論文で示される概念説としてのアリストテレスがどう結びつくのかもよく分からないままだ*3

魂の変容――心的基礎概念の歴史的構成

魂の変容――心的基礎概念の歴史的構成

*1:ここでは、(現代哲学的な)知覚の志向性そのものの有無が問題ではなく、あくまでブレンターノによる志向的内在が心的現象にしか当てはまらないに過ぎない。論文での話の展開がブレンターノの志向的内在だけを話題にしている

*2:補足記事も参照

*3:もちろん身体化説と概念説を両立させた哲学者としてノエがいるのだけれど、少なくとも身体説と概念説の両立は必然的ではない