中畑正志「魂の変容」のレビューへの補足
前回中畑正志「魂の変容」のレビューを出したのだけれど、私の哲学史の知識など所詮は素人レベルでしかないので、あそこで書いたことが正しいかどうか未だに気になっていた。志向性については(チザムやブレンターノはまだしも)古代や中世となると専門家でもない私の手には追えない(素人でも参照できる適切な資料があまりない)ので置いとくとしても、古代哲学における概念論争についても骨が引っかかった感じが残っていた。で、とりあえず手近で読める概論書で確かめる事にした。
そういう訳で、(アマゾンのレビューでもさりげなく褒めておいた)「哲学の歴史〈第2巻〉帝国と賢者 古代2」を再読してみた。レビューの内容を確認しておくと、中畑正志はストア派に比して新プラトン主義はマクダウェルの批判する所与の神話に嵌っているのだとしているが、私は実際の事情は逆じゃないかと指摘した。その根拠の一つは新プラトン主義が心の自発性を擁護しているのがマクダウェルと同じ考えであることだ。これについては概論書の該当個所を見てもよく分からないのだけれど、(中畑正志は承知の上だろうが)新プラトン主義と違ってマクダウェルはイデア論を前提としていないので、古代哲学に現代の概念論争をそのまま当てはまるのは無理があることは再認識した。とはいえ、心の自発性(能動性)に注目されているのは目の付け所が悪くないと感じる所もある。マクダウェルへのヘーゲルの影響を考えると、ヘーゲルを介してマクダウェルと新プラトン主義を結び付ける線もなくはなさそうだし、アリストテレスの能動知性と関連付けるとさらに図式が明確になる気がするし、さらにグノーシス主義を持ち出しての妄想(心の能動性の暴走?)も働いてくるが、こんな話はちゃんと調べない限りは本当に単なる妄想でしかないのでもうやめておく。
レビューでもう一つの根拠として軽く触れたのは、ストア派と論理実証主義はどちらも所与の神話に嵌っているのではないかという疑惑だ。参照した概論書に古代懐疑主義によるストア派批判にぴったりの該当個所があったので。それを引用しよう。
もしも把握とは把握的表象への承認であるとすれば、それは非存立的なものである。というのも、まず第一に、承認は表象との関係で生じるものではなく、言論[理性]との関係で生じるものだからである──なぜなら承認とは、命題に対する承認だからである。
- 「哲学の歴史〈第2巻〉帝国と賢者 古代2」p.218にあるセクストス「学者たちへの論駁」引用部からの孫引き
ここでの表象を感覚によるセンスデータだと捉えれば、セラーズによる所与の神話批判と言ってることがそっくりだ。表象(感覚データ)だけによって命題を真だと確かめることはできない(表象と命題をどう対応させるべきかは自明ではない)のだ。ここで皮肉なのは、ストア派も論理実証主義もイデア(普遍)を認めていない点でも一致している点だ。所与の神話+反イデア論というご都合主義な組み合わせははまり込みやすい哲学的な罠なのかもしれない。それにしても、ストア派への懐疑主義の批判が、論理実証主義者の認識論的欲望へのセラーズの批判と似ている事は、近世における古代懐疑主義の発見が(中世後期の唯名論の登場と主に)近代における(デカルト以降の)認識論の隆盛を促した事を考えると皮肉な事態である。