イグナティエフ「ニーズ・オブ・ストレンジャーズ」

ニーズ・オブ・ストレンジャーズ

政治思想的な背景は一読では分かりにくいが、思想史のエッセイとしては今でも面白い

政治思想家として著名なイグナティエフが、人々の要求(ニーズ)が西洋の歴史上でどのように表現されてきたかを思想史的に探った作品。宗教的なニーズを表現したアウグスティヌスから経済的ニーズと政治的ニーズの対立としてのアダム・スミスとルソーに至るまでが描かれ、思想史的な著作として普通に面白い。ただし、「はじめに」での独特の福祉国家批判によるケア論など今となっては時代を感じさせる政治的言説も含まれる。全般的に読みやすい著作ではあるが、イグナティエフがその政治思想の背景としている開かれた言語論については示唆されているだけで直接には描かれないのでそこは分かりにくい。
一時期のイラク戦争への擁護などで有名になった政治思想家イグナティエフがそれよりも前の八十年代に出した代表作。西洋の歴史でどのような要求(ニーズ)が表現されてきたのかを思想史的に探っている。第一章だけは例外的にシェイクスピアリア王」の文芸評論みたいな内容だが、残りの章ではすべて有名な哲学者たちの思想を思想史的に探求している。第二章のアウグスティヌス、第三章のヒューム、第四章のアダム・スミスとルソーと、その要求が宗教と世俗の対比からヒュームの宗教批判を経て経済と政治の対比へと移り変わっている。物質的なニーズに対して霊的ニーズが主張された時代から、自由主義的な経済的ニーズに対して共和主義的な政治的ニーズの主張へと、ニーズの表現される言語は時代と共に変化していることを章毎に追っている。
現在から見ても面白い章はやはり第四章だろう。自由経済を擁護するアダム・スミスと徳による共和政を提唱するルソーとの対立が描かれており、それは現代的にはリバタリアンとコミュタリアンとの対立に見事に一致する。

全体的に見れば、ルソーの作品は、勃興しつつある資本主義経済がもたらした国際的分業の内部で、市民たちからなる平等主義的な共和国の可能性を擁護しようとしたきわめて意義深い試みである。それは「習俗と徳性の古代の教説」─ジョン・ポーコックはこの伝統をマキャベリアン・モーメントと呼ばれるということを教えてくれたが─の伝統につらなる思想家たちが、新しい「金銭と商業の教説」が提出された未来に反対して行なった試みの中でも、最も一貫した代表的試みなのだ。(p.166-7)

見知らぬ他人たちからなる社会、媒介された間接的な社会関係にもとづくだけが、進歩を達成させるダイナミズムをもつ。依託し、専門化し、自己を一つの仕事に専念させることによってのみ、野蛮から文明への移行を果たすことができる。共和主義が理想とする分裂せざる人間と共同体主義的な共和国は高貴な魅力をそなえてはいるがもはや不振をかこっており、資本主義的な世界の現実とは折り合いが悪いのだ。(p.168-9)

なぜイグナティエフがニーズの言語の変遷を追っているかは、本論の周辺にある「はじめに」や「おわりに」に示唆されてはいるが、直接的に論じている訳ではないので分かりにくい。「はじめに」で論じられる単に物質的に満たされていれば構わないとされる福祉国家への批判は、リバタリアンによる福祉国家批判とは異なり、尊厳のような人としての要求(ニーズ)に注目するケア論と関わりを持っている。単なる権利を越える要求(ニーズ)がどのように表現されてきたのかがこの著作のテーマになっている。(政治に関わる)言語表現における宗教性の衰退と言う点ではチャールズ・テイラー「自我の源泉 ?近代的アイデンティティの形成?」と似たテーマを扱っているが、無駄に大部なテイラー本よりはこっちの方が読みやすくて個人的は好きだ。テイラーの本においては表現主義的な言語が問題になっていたが、イグナティエフでは開かれた言語(public language)に焦点が向いており*1、その辺に共同体主義とリベラルの立場の違いの反映を見ることもできる。
この本は思想史的なエッセイとしては素晴らしいのだが、政治思想の本として眺めると微妙な所もある。独特の福祉国家批判によるケア論(病院や監獄では物質的に満たされいるだけでは満たされないニーズがある)も、ネオリベ思想による福祉国家批判(大きな政府への批判)が知られるようになった現在では時代を感じさせる。そもそも著者の開かれた言語論は本論の思想史エッセイの背景となっているはずだが、これを読んでいてもその側面を読み取るのは難しい。私自身もネット上の論文(「イラク戦争を巡るマイケル・イグナティエフの思想 」[PDF])を読んで始めて気がついた。その上、権利とニーズとの関係が曖昧で、おそらく表現されたニーズの一部が権利へと昇華されるという構造のはずだが、論述の都合で時に権利とニーズが排他的であるかのように語られたりと、分かりにくさに拍車をかけている。背景の政治思想が分からなくても思想史的なエッセイは単独で面白く読めるが、背景の政治思想も分かった方が理解も深まるはずなので、この辺りはもったいないと思う。
アダム・スミスとルソーにおける自由主義的な経済的ニーズと共和主義的な政治的ニーズの対比は今でも興味深いテーマだが、イグナティエフ自身はどちらの側も与していない。

アダム・スミス「諸国民の富」には、ユートピア的経済学の幻想、とりわけ共和国が外国の贅沢品、国際市場と分業から隔絶された孤島のようなものになりうるという幻想の容赦ない解体が見られる(…略…)逆にその政治体が門戸を開放すれば、国際競争の手にかかって徳の実験を立ち消えにさせる危険をおかすことになる。(p.35)

イグナティエフは一方の政治的立場に立つのではなく、それらを話し合うことが可能になるようなニーズを語る開かれた言語が必要だとしている。後のイグナティエフはニーズの言語を国内から国際へと応用することで人権を守るための戦争を擁護することになるが、それはこの著作の日本語版の序文にも示されている。国際的にはどうであれ、少なくとも国内的にはイグナティエフの枠組みは後期ロールズの政治的リベラリズムと同じ考え方である*2。どんなニーズが採用されるのであれそれは人々の間のやりとりの中で決まっていくのであって、その点で政治にはいかなる基礎もないのだ。イグナティエフが語る開かれた言語(public language)とはそのような人々のやりとりを可能にするために求められるべきなのだ。

ニーズ・オブ・ストレンジャーズ

ニーズ・オブ・ストレンジャーズ

*1:イグナティエスの論ずるニーズの言語の違いはローティによるヴォキャブラリーの違いを思わせる

*2:イグナティエフへのバーリンの影響からもこれは確証できる。バーリン・オークショット・ローティ・後期ロールズという政治的リベラリズムの系譜にイグナティエフを付け加えても差し支えないだろう