キムリッカ「新版 現代政治理論」
「新版 現代政治理論」
ロールズ以降の現代政治哲学の流れをうまく議論としてまとめている良質な概論書
原題に「現代政治哲学 入門」とある通り、ロールズ以降の政治哲学での重要な議論を分かりやすく解説したよく出来た概論書。功利主義・リベラルな平等主義・リバタリアニズムと主要な正義論の理論を紹介した後で、分析的マルクス主義・コミュタリアニズム・シチズンシップ理論といったそれ以降の動向がさらに紹介され、英語圏の政治哲学の流れがうまく整理してまとめられている。ただし、最後の多文化主義とフェミニズムの二つの章はそれまでの流れから分断されていて付録みたいに見える。ロールズやコミュタリアニズムの扱いなどに不満がない訳ではないが、全体としては政治哲学の概論としてお勧めできる。
ロールズの「正義論」を震源として英語圏の政治哲学での議論が活発になり、今やそれは無視できないものとなっている。そうした政治哲学は日本ではサンデルの授業で有名になったが、この著作はそうした現代の政治哲学を批判的な議論を交えながら分かりやすく紹介している。サンデルの場合は哲学史への言及も多かったが、この著作では現代の政治哲学の文献を参照した本物の現代的な議論を堪能できるようになっている。かなり分厚い著作で、かなり分かりやすく書かれているとはいえ議論はガッツリとされているので、サンデルの本のような入門書を読んで興味を持った人がさらにきちんと勉強したくて手にとるのに相応しい。その点では、入門書と専門的な解説書との中間ぐらいに位置づけられる。
前半で功利主義・リベラリズム・リバタリアニズムと主要な正義論の立場が扱われ、その後に社会民主主義・コミュタリアニズム・共和主義論とそれ以降の流れが扱われているが、狭義の正義論からそうした抽象的な正義論への批判という流れで書かれており、その見事な構成の仕方には感心する。それに対して、最後に付けられた多文化主義とフェミニズムの二つの章は、それ自体が出来が悪いとまでは言わないが、それまでの構成上の流れとは分断されていて、蛇足が言いすぎでも少なくとも付録みたいに見えてしまう。
全体としてみれば、現代政治哲学の概論としてよく出来てると思うが、不満点がない訳ではない。ロールズに関してはその重要性の割には扱いがあっさりとしてて物足りない感じもするが、これがあくまで概論である(専門的な解説書を読むための準備である)事を考えれば許せない程じゃない。コミュタリアニズムの章に関しては、著者はアーミッシュのような閉じた宗教集団をコミュタリアンな集団の例としてよく出すが、そのような集団がコミュタリズムの想定している共同体だとするのは無理があるし、それに伴ってそうした閉じた共同体に対する対応として政治的リベラリズムを捉えるのもやはり無理を感じる。とはいえ、リベラル-コミュタリアン論争の意義そのものが未だにはっきりしないところがあるので、一概に著者を責めることもできない。
英語圏の哲学の特徴はそのじっくりとした議論の仕方にあるが、この著作は現代的な政治哲学の議論がうまくまとめられており、そうした哲学的な議論を十分に堪能できるようになっている。複雑な政治哲学の議論をこれほどうまくまとめた著者の手腕には感心せざるを得ない。入門書を越えてもう少し政治哲学を本格的に勉強したいという方にはぜひこの本をお勧めします。
とりあえずのレビューは終わりにして、もっと突っ込んでみる
相互利益的契約論はリバタリアニズムを擁護できているのか?
この本の基本となる問題点は既にレビューで指摘したが、ここからはもっと微妙な問題点を議論したい。リバタリアニズム(自由至上主義)への主要な哲学的擁護法には二つあって、ノージックによる自然権論とゴティエによる契約論がある。これらの擁護法はこの著作でも扱われているが、契約論には説得力を感じることができなかった。その原因が著者(キムリッカ)の説明にあるのか元々のゴティエの議論にあるのかはこの本を読むだけでははっきりとしないが、以下ではこの著作の説明が正しいと仮定して吟味してみたい。
この著作ではリバタリアンの相互利益的契約論としてゴティエの議論が紹介されている。そこで持ち出されるのがゲーム理論で用いられる囚人のジレンマである。二人の人物が独立に協力するか裏切るかを選ぶのだが、互いに協力すれば互いに利益があるのだが、こちらが協力を選んでも相手が裏切れば協力した側はむしろ損してしまう。一回限りの選択ならば裏切る方が合理的だが、繰り返しのゲームではそうではない。細かいゲーム理論の議論は面倒なので省略するが、囚人のジレンマを繰り返す状態では協力する方が合理的だし、実際の実験でもその傾向がある。ゴティエはこれを所有権へと適用して、互いに相手の所有権を尊重する方が合理的なので、互いの所有権を侵害しないことが道徳として成立することになるとしている。これが相互利益的契約論によるリバタリタリズムの擁護なのだが、どうも説明が足りない。
要となるのは所有権からリバタリアニズムの擁護への導出である。ノージックの自然権論では所有権が原初的な権利(自然権)として主張されて他の権利や道徳に優先するのでリバタリアンは正しいと論じられている。本当に所有権が他の権利や道徳に優先するかどうかが十分に説得的に示されているかどうかは怪しいとしても、少なくとも所有権を根源としたリバタリアンな社会の構想を提出することには成功している。ゴティエの場合も、同じように所有権からリバタリアンが擁護されているように見えるが、よく考えてみるとどうもおかしい。ノージックでは所有権を基盤とした社会構想が提示されているだけだが、ゴティエにおいては所有権の尊重は道徳であるとされる。しかし、互いの所有権の尊重という道徳が他の道徳に対して優先されるべきだという議論は特にない。
それ以前にそもそもそうした道徳が現実に存在するのかそうであるべき理想なのかもよく分からない。それが実際の道徳であるのなら、放っておいても人々は勝手にリバタリアニズムを支持するはずだが、現実はそうではない。もしその道徳が理想なのだとしたら、所有権の尊重という道徳が他の道徳(例えば弱者保護)に対して優先されるべき事を示さないといけないが、それは示されていない。ゲーム理論による説明も、まるでこの世の取引のすべてが囚人のジレンマであるかのような言い分であるが、もちろんそんな訳がない。課税による公共施設の建設が大勢の利益になる場合は、むしろその方が相互に利益があることになる。ノージックによる所有権の擁護に問題(原初的取得の問題)がない訳ではないが、それでもゴティエの擁護に比べれば全然マシだ。
コミュニタリアニズムの意義は何だったのか?
もちろんそんなこと私にも特定できない。そもそもリベラル-コミュタリアン論争の意義は未だにはっきりとしていない。この著作でも指摘されているが、サンデルによる負荷なき自己によるロールズ批判は(盲目的な共同体論フリークでもない限り)正当性がないことは認められている。だいたい当時コミュタリアンと呼ばれた人たちにどの程度の共通性があったかさえ分からない。コミュニタリアニズムの特徴とされる共同体や共通善が文字通りに存在すると考えるのが妥当かも怪しい。それ故に、コミュニタリアニズムが全体として一般的に語るのには無理があり、個別の論者毎に別々に論じるのが適切なように感じる。
そもそもの事情がそういう訳なので、この著作のコミュニタリアニズムの章も微妙な所があるのも仕方がないかもしれない。章後半のリベラル・ナショナリズムとの関連の説明は悪くないのだが、章前半の政治的リベラリズムと関連付ける所(閉じた宗教集団がコミュタリアンな共同体?)は既にレビューでも触れたように無理がある。とはいえ、コミュタリアニズムの章からシチズンシップ理論の章へのつなげ方は、後者が後から付け加えられた章にも関わらず、よく出来ているので感心してしまった。アーミッシュのような閉じた宗教共同体であっても、完全に閉じているのならまだしも、多少とも外部との交渉があるのなら最小限の市民性が必要な気もするが、そこは突っ込まないでおく。
私の印象ではコミュニタリアニズムの意義は当時における政治哲学の方向転回として捉えればいいのかな?と、自分の知識で考えるようになった。どうせ自分は専門論文を書いてる訳じゃないのだから、適当にそのアイデアをここに書いてもいいかな〜と思った。
私の考えるコミュニタリアニズムの意義は大きくウォルツァー型とサンデル型に分かれる。ウォルツァー型はそれまでの抽象的な正義論を批判してより具体的な社会の構想を提示したことである。ここで大事なのはロールズやリベラリズムが直接に批判されている訳ではなく、政治哲学で主流となっていた具体的な政策とあまり結びつかない抽象的な正義論である。その結果として具体的な社会の構想を提示することになるが、それが個々の社会の事情に則るものであるべき点では共同体主義的であると言える。
サンデル型については、サンデルのリベラリズム批判を真に受けすぎずにその意義を忖度する必要がある。そのためにはコミュニタリアニズム登場と同時代のネオリベラリズム(ニューライト)による福祉国家批判と(シチズンシップ論でも取り上げられている)後のサンデルの共和主義論(シビック・ヒューマニズム論)に注目する必要がある。ネオリベによる福祉国家批判とは弱者とされる人に国家が援助するだけでは国家に依存する怠け者を生み出すだけだという批判だ。サンデルの共和主義論では、国家が中立的な立場から自由や平等を守っているだけでは市民が公共的な徳を身につける事ができないとされる。表面的に見ればネオリベラリズムとシビック・ヒューマニズムでは個人主義と公共性とで真反対のものを擁護しているように思える。しかし、どちらも国家の政策では得られる事のできない人格的な徳(経済的自立や公共的精神)を擁護している。そう思ってサンデルの負荷なき自己論を考えると、政策と人格の関係を問題にしていたのではないかと感じる。負荷なき自己論をロールズの無知のベールへの批判と考えても不毛でしかない。ネオリベが福祉政策が怠け者の人格を生み出すとしたように、サンデルは人格と政策の関係を問うていたのだ。そう思ってロールズ「正義論」を見ると、第三部で善の理論が扱われていたことが思い出される。この第三部で問題となった安定性は後の政治的リベラリズムでも再び問題になり、正義と幸福(善)とがより明確に分離されるようになるのだが、「正義論」の段階ではまだ正義と幸福(善)は中途半端に結び付いていた。本当はサンデルは第三部を問題にして、正義と善つまりは政策と生き方(人格)は切り離す事ができないことを強調すべきだったのだ。後にサンデルは正義と善の中間点に徳を見出すことになる。
とはいえ、ネオリベラリズムの言う通りに福祉政策を止めたからといって自動的に人々が経済的自立性を身につける訳ではないように、どうすれば公共的徳を人々が身につけられるのかは明確ではない(少なくとも学校で簡単に教えられるものではないし、もちろん価値の押し付けではお話にならない)。とはいえ、政策(および判決)と人格形成は切り離すことができないことを気づかせてくれた点でネオリベラリズムとコミュニタリアニズムは時代的な役割を果たしたと言える。そういう点からはコミュニタリアニズムが指摘する中立的国家が批判されるべきなのではなくて、国家は単に中立的であることなど今やありえない。特定の政策を採らないことも偏っている証拠となりうる。
であるがゆえに、政治的リベラリズムが見出そうとしているのは中立点ではなく妥協点でしかなく、であるがゆえに「政治的」なのである。ロールズは政治的リベラリズムだけでなく(シビック・ヒューマニズムとは分けられる)道具的共和主義をも支持しているが、彼は徳の重要性を認める一方で正義と善はあくまできっぱりと分離するが、それは彼が政治に関してリアリストであった証拠だが、それは言い換えれば現実的な理想主義者であることの証でもあったのだ。
- 作者: W.キムリッカ,Will Kymlicka,千葉眞,岡崎晴輝
- 出版社/メーカー: 日本経済評論社
- 発売日: 2005/11/01
- メディア: 単行本
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