ロールズ政治哲学史講義

ロールズ 政治哲学史講義 I

要所を押さえた近代政治哲学史の概論的な講義としては他の追随を許さない程の大傑作

1970年代から80年代にかけてロールズが行なった政治哲学の講義録を編集した著作。既に出版されているロールズの(道徳)哲学史講義と対になっており、独自の見解を抑えてテキストに沿った純粋な哲学史の講義となっている。ホッブス、ロック、ヒューム、ルソー、J.S.ミル、マルクスといった一連の講義に、シジウィックやバトラーの講義が付属されている。私の知る限りでは、日本語で読める近代政治哲学史の概論的な著作としては断トツに読みやすくて優れた内容になっている。ロールズに興味のある人だけでなく近代政治哲学史に興味があるならば是非お勧めしたい著作だ。
上巻ではホッブス、ロック、ヒューム、ルソーまでの講義が収録されている。ロールズ哲学史講義は全般的にテキストに沿った哲学史講義になっているが、(独自のカント解釈を含んだ)既に出版されている(道徳)哲学史講義と比べると独自の見解はさらに抑えられている。あくまで元のテキストに沿って歴史的文脈の中で理解しようというロールズの意図を強く感じる。例えば、ロックについては現代的なリバタリアン的解釈を退けて当時の王政への抵抗権を強調して説明している。また学説を紹介するだけの表面的な哲学史概論とは異なり、例えばヒュームによる(ロックの)社会契約論への批判の持つ正当性もきちんと議論して評価している。この講義録を読めば近代政治哲学史への理解が深まること請け合いだ。
全般的に講義内容は分かりやすくてしっかりしたものとなっているが、あえて文句を言うとすれば(一般意思の形成時での会話を否定する)ルソーを熟議的理性の源みたいに言ってしまうのはどうかとは感じる。とはいえ、これはルソーの見解をどう一貫させて理解すべきかは分かりにくい所があるので、一概にロールズのせいとは言えない。むしろ、その程度の傷は講義録全体の出来の素晴らしさの中ではほとんど目立たない。
ともかく、近代の政治哲学史についてこれほどに明瞭に分かりやすく語っている著作は読んだことがない。所詮は講義録だからロールズについての資料みたいなものでしょ…という甘い予断は完全に裏切られる。もちろん政治哲学史のすべてを網羅はしていないが要所は十分に抑えられているので、近代政治哲学史の概論としても優れている。たとえロールズに興味がなくとも読んでもらいたくなる政治哲学史の素晴らしい一品です。

ロールズ 政治哲学史講義 II

日本語で読める近代政治哲学史の概論的な講義として随一の素晴らしい作品

ハーバード大学で長年ロールズが行なった政治哲学の講義録を編集した著作。既に出版されている(道徳)哲学史講義と対になっており、独自の見解を抑えてテキストに沿った純粋な哲学史の講義となっている。ホッブス、ロック、ヒューム、ルソー、J.S.ミル、マルクスロールズ自身が計画した一連の講義に加えて、さらにシジウィックやバトラーの講義が付属されている。私の知る限りでは、日本語で読める近代政治哲学史の概論的な著作としてはこれほど面白く読めるものは他にないように思う。ロールズに興味のある人だけでなく近代政治哲学史に興味がある人にも是非お勧めしたい。
下巻はロールズの計画した一連の講義の残りであるJ.S.ミル、マルクスの講義と、関連した講義であるシジウィックとバトラーの講義が収められている。もちろんこちらでもテキストに沿った哲学史が全面的に展開されている。ロールズが好むJ.S.ミルは当然ながら、他では言及が稀なマルクスロールズの批判対象である功利主義の代表であるシジウィックであれ、先入見が排された見事な講義が展開されている。マルクス講義などは、どうせロールズの得意なものではないだろうと高をくくっていたら、案外ときちんとした分かりやすい講義だったので驚いた(資本家と労働者が一致すれば原理的に剰余価値はなくなるという指摘にはむしろ感心した)。補遺のシジウィック講義も功利主義入門として優れていてとても勉強になった。
ロールズの政治哲学史講義は全体として読み物としてとても良くできているが、ただバトラー講義だけはロールズ理解のための資料みたいな感じが強くて、読んでいて面白いものではなかった。とはいえ、バトラー講義は単なる資料なんだと割りきればいいだけなので、そこは問題ないだろう。
この政治哲学史講義は「ロールズの…」という冠を無視してもその価値が一切下がらないほど、概論的な講義録として優れている。単に学説を並べただけの政治哲学史に飽き飽きした人には是非この著作を読んでもらいたい。政治哲学史がいかにして現代においても意義を持っているのかをこれほどに力強く理解させてくれる著作は他にはない。

ルソーについて自分勝手に推測してみた

ロールズについては、特に後期を中心にずっと興味を持っていて、未だに翻訳のない「政治的リベラリズム」を洋書で手に入れてしまったぐらいだ。後期ロールズは日本だけでなく欧米でもあまり正しく理解されていないと感じる。後期ロールズがコミュタリアン(特にサンデル)の影響を受けて転向したというよくある見解もおかしい(明らかに後期ロールズはコミュタリアンとは逆方向に向かっているようにしか見えない)が、そもそも後期の「政治的リベラリズム」を前期の「正義論」と同等に並べて論じること自体に問題があるのだが、詳しくは渡辺幹夫の著作でも読んでもらうしかない。要点だけ述べると「政治的リベラリズム」は秩序の安定性が主題なのだが、それは「正義論」第三部の書き換えに相当する。秩序問題は今の私の個人的な関心でもあるが、それについて語る準備も余裕もないのでそれは止めておく。
この政治哲学史講義はロールズへの興味の一貫として読んだのだが、政治哲学史そのものへのT解が深まる、というその当初の目的を越えた収穫を得られた。正直、政治哲学史の本は(専門的なテーマの狭い研究書みたいな本は別として)学説を表面的な並べただけで面白いと思ったことが全くなかった。それが、これが読んだおかげで始めて政治哲学史を(それなりではあれ)理解できたと思えるようになった。
社会契約論の意義というのは今まであまりよく分からないでいたけれど、これを読んでやっと光が差してきた気がする。同じく社会契約論でも著者によって狙いが全く違うということに気づかせてくれた。ホッブスは(宗教戦争のような)内戦状態を避けるために主権者を設定したのだが、具体的な統治制度としては絶対主義を支持するに終わった。ロックは専制を防ぐために絶対主義への抵抗権を提示したかったのであり、リバタリアンのように所有権の擁護が目的だったのではない。このように社会契約論によって内戦と専制を両側から防ぐ議論が提出できるのだが、具体的な統治制度の提案と言う点では甘い所がある。そこでルソーの登場となる…はずだが、こうしたお話は私が勝手に組み立てたものであることは置いとくとしても、ルソーをどう理解すれば良いのかはこのロールズの講義を読んだ後でも疑問が残る。ロールズはルソーに熟議的理性(上巻p.399)や公共的理性(p.412)の源を見ているのは素直には受け入れがたい。公共的理性とは理由を公に提示する能力だが、これをルソーに認めるのは、ルソーが一般意思の形成時に市民間の会話を認めない(p.408)ことと調和しない。

ルソーの一般意志について勝手に考えてみた

きちんとしたことはもちろんルソーの著作をちゃんと読まないと言えないので、ここから先は私の勝手な推測でしかない。この講義を読むと、ルソーは一方で一般意思形成時の市民間の会話を認めないが、他方で社会生活での市民間の協働の必要性は認めている(p.393)。つまり、一般意思の形成と実際の社会生活は分けて考えなければならない。ここで注意すべきなのはルソーは他人の意見に左右されることや徒党を組むことを嫌っている事だ。ルソーが一般意思の形成時に会話を認めないのは、他人の意見に表面的に合わせたり前もって他人と利害を一致するよう仕向けておいたりを防ぐためではないかと思われる。次に注意すべきなのは、他人と会話をしない事と他人を考慮にいれる事は別物であることだ。ロールズがルソーに熟議的理性を認めることには一面の真理が含まれているように感じる。熟議とは[熟慮+議論]のことだが、ルソーは議論には否定的だが熟慮は認めているように思える。一般意思形成に関して、他人と会話はしないが他人を考慮にいれて熟慮する必要はあるのではないか。ここで注目すべき点は、一般意思は単なる私的意思(利害による個人的欲求)の集まりではないということだ。一般意思は共通善を目指しているとロールズは言っているが、これを表面的に鵜のみにすると古典的功利主義(効用の和を最大化する)と違いがなくなってしまう。しかしだとしたら、一般意思は個々の市民の意思の反映だと考える必要がない。
一般意思は各市民が十分な情報を持つことで得られるのだが、単にそれだけでは私的意思と違いがなくなってしまう。そこで各市民は他の市民の事も考慮しながら、より多くの市民と一致しそうな事を意図しようと努力することになる。つまり、他人と議論することなく個々の市民が単独で熟慮することで結果としてある内容に達するはずであり、それが一般意思へと結実する。ある市民が自分に都合の良いルールを思いついたとしても、他の市民がそれを認める訳がないので、他の市民も認めるようにルールを修正する。各市民が自らの頭の中だけでそれを実行すれば、例えば互いに自由を尊重するといったような権利*1にたどり着くはずだ。もし市民間での会話を認めれば共謀して多数者の利害が優先されてしまうが、会話を認めなければそれは起こりにくいはずだ。ロールズが考える(p405)のとは違って、一般意志は単なる多数決ではないのであり、もし単なる多数決だとしたらたとえ各市民が正しく考えていても多数者の利益が優先されることになりえてしまう。ここでルソーが想定しているはずなのは、自分が社会の中でどの立場にあるか分からないものとする(ロールズの言う)無知のベールのようなものに思えるし、反照的均衡を各人の頭の中で独立して行っているようにも見える。こういう風に考えた方が少なくとも私には辻褄が合うと感じる。

おまけ:憲法論としての社会契約論(未完)

一般意志とは各市民が独立してたどり着けるものであり、それはある種の無知のベールの元で個々人が考えついて一致するのであり、(理念的には)多数決を前提にする必要はない。ここで注意すべきなのは、一般意志とは歴史のある時期に生じるものではなく、いつでも生じうるものだということだ。日本には現在の憲法アメリカが作ったものからダメだという話があるが、これは歴史的な議論と理念的な議論をごっちゃにしている。ルソーは(憲)法が特定の人物によって作られることは認めている(歴史的沸騰!)がそれは歴史的な形成問題でしかない。その憲法を誰が作ったかなんて事はどうでもよくて、本当の問題はその憲法の内容が各市民が独立して行なう無知のベールの元における熟慮の結果として生じる一般意志に適合するかどうかである。その憲法にその製作者の利害が反映されているなら確かに問題だが、それでもあくまで問題は内容にあるのであって製作者が誰かは憲法にとってどうでもいいことだ。
憲法はそれを通して一般意志が発現する媒体であって、一般意志を発する市民がいなければ憲法は何の意義も持たない。そうした一般意志が具体的に現れるのが違憲裁判である。憲法は立法される法律に対して(権利を中心とした)枠組みを与えるが、立法された法律が憲法という枠組みに沿っているかどうかを見張るのは市民の仕事である。よって、違憲裁判は他の普通の裁判とは性質が全く異なるのであり、司法が政府や行政の目を気にして独立性を失ってはならない真の理由である。政治家は選挙で選ばれたからと言ってどんな法律でも作ってよい訳ではなく、憲法と言う枠組みに沿うべきであり、そうであるかを見張るのは市民しかいない。

ロールズ 政治哲学史講義 I

ロールズ 政治哲学史講義 I

ロールズ 政治哲学史講義 II

ロールズ 政治哲学史講義 II

*1:考えられる憲法的な内容としては、ホッブスのように争いを防ぐこと、ロックのように所有権を認めること、J.S.ミルのように各種の自由を認めることなどがある