ゴードン・シェファード「美味しさの脳科学」への未削除版レビュー

美味しさの脳科学:においが味わいを決めている

嗅覚が専門の神経科学者が食べ物の風味を生み出す科学的基盤を解明する良質な科学書

嗅覚を専門とする神経科学者が食べ物の味わい(風味)を科学的に探求している一般向け科学書。前半は著者の専門である嗅覚の科学について基礎から分かりやすく説明している。後半は口の中からの匂いであるレトロネイザル経路の匂いが重要な役割を果たす食物の風味(味わい)について多面的に考察している。この種の本にはありがちな地味な記述も多少あれど、全体的にはとても読みやすく書かれている。特に味わいの科学を軸に全体をまとめ上げている科学的教養を背景にした著者の手腕は見事である。
心の科学を扱った著作は日本でも近年多く出版されているが、本当に出来の良いものは必ずしも多くない。正直なところ、有名な面白い研究成果は限られているので、どの本を見ても類似した研究ばかりが紹介されているだけのことも多い。他にない目新しい研究が紹介されていたとしても、ただ淡々と研究が紹介されているだけだと、その意義が読者には伝わりにくくて読んでいて面白くないこともよくある。ましてや心の科学的基盤である脳などの生理学的な説明となると、うまくやらないとどうしても無味乾燥になりがちだ。(たとえ欧米であっても)並の研究者や科学ジャーナリストによる本ではそうした罠に陥りやすい。本当に面白い良質な科学書は一流の研究者によって書かれる事が多いのだが、この本はそうした著作の一つとして認定してよい素晴らしい科学書だ。
原題は「ニューロ・ガストロノミー」で、食べ物の風味を決める神経的基盤を探る試みを意味する造語。一般的には嗅覚というと外界の匂いをかぐオルソネイザル経路が中心だが、著者はそれとは異なる、物を食べる際に口の中から運ばれる匂いをかぐレトロネイザル経路に注目して、そこから人は食物の風味をどのように味わっているかを科学的に探求している。著者は嗅覚を専門とする神経科学者だが、この著作は本人の専門である嗅覚の科学についての解説としても優れているが、それだけではなく嗅覚も重要な役割を果たす味わい(風味)についての科学をも紹介しているという点では他に見られない珍しい特徴を持っている。
人間の嗅覚は他の動物に比べると退化しているかのように思えるが、それは外界の匂いを嗅ぐことを念頭におくからそう思えるだけで、口の中からの匂いを嗅ぐ点ではむしろ人間は犬より優れた構造を持っている。そうした口の中から(レトロネイザル経路)の匂いは、鼻をつまんで食べ物を口にすると分かるように、食べ物の風味を決める大切な要素だ。こうして人の嗅覚の重要性を確認した上で、前半では著者の専門である嗅覚の研究をその歴史を交えながら説明している。その説明が見事なもので、匂いの認識の複雑さを顔の認識と比較して説明するのには納得してしまった。後半はより広い視点から嗅覚を始めとする複数の感覚から(脳の中で)生み出される風味について考察している。風味に関連した研究を取り上げて説明しているのだが、もちろん(その複雑さ故に)風味そのものの研究というのはほぼないので、ここでは著者の科学的教養が全面的に発揮されることになる。風味を心の科学で話題にされる一通りのテーマに結び付けて論じられているのだが、心の科学の本に慣れた身にはその扱いの見事さには感心した。
全般的によくまとまっていて読みやすく書かれてはいるが、さすがに(例えばピンカー本のように)誰にでもスラスラと面白おかしく読めるとまではさすがにいかない。やはりこうしたテーマに興味を持っているだけではなく、それなりにこの種(心の科学)の話に慣れている方が読み進め易いだろう。とはいえ、時々見かけるただ研究成果を並べただけの一般向けというにはキツイ本では決してなく、逆に自分の専門領域について分かりやすく説明できているのはもちろんのこと、関連領域にも目端を利かせた上で味わい(風味)の科学を組み立てていく著者の力量─著者の心の科学への深い理解と教養─には感服するしかない。
私は心の科学についての本に食傷気味であまり安易に褒める気はしないのだが、これは著者の科学的な理解の深さが反映された読みやすい本であり、地味ながらも味わい(風味)についての科学を構築するという野心にあふれたとても興味深い著作である。

美味しさの脳科学:においが味わいを決めている

美味しさの脳科学:においが味わいを決めている