スザンヌ・コーキン「ぼくは物覚えが悪い」(修正前のくどい書評とおまけの追記)

ぼくは物覚えが悪い:健忘症患者H・Mの生涯

世界一有名な健忘症患者H.Mについて、当の研究者がその人柄を交えながらその研究成果を紹介していく記憶の科学書の傑作

ロボトミー手術によって新しいことを一切覚えられなくなってしまったH.M(ヘンリー)をめぐる研究成果をその生涯を交えながら紹介していく一般向け科学書。タイトルからは分かりにくいが、記憶の科学的研究の紹介が主で生涯は挿話としてはさまれる程度ではあるが、そのバランスが絶妙。心理学や神経科学の世界では有名な患者であるH.Mについての研究成果を分かりやすく解説しながらも、H.Mの人柄にも触れることで単なる研究対象とは感じさせないようになっている。全般的に読みやすく書かれた著作ではあるけれど、それでも知識がないと分かりにくい部分が多少ある。とはいえ、全体としては一般向けの著作としてかなり頑張って書かれた著作であり、記憶研究の面白さを伝える良作としてぜひお勧めしたい。
この本の主人公であるH.Mは脳のロボトミー手術によって新しいことを覚えられなくなった(前向性)健忘症になったことで世界的に知られている。そのH.Mは(記憶の)心理学や神経科学の授業では必ずと言っていい程に言及される有名な患者であるが、長い間イニシャルでしか知られていなかった。その彼が亡くなったことを機に彼を担当していた研究者が(患者の本名を明かして)その研究成果と生涯についてまとめて描いたのがこの著作である。
H.M(ヘンリー)にはひどいてんかんの症状を直すために脳の一部を切除するロボトミー手術を行なった。(現在は認められていないが)当時はロボトミーはよく行なわれた治療法であり、その辺りの事情についても詳しく書かれている。その結果、ヘンリーは新しいことを一切覚えられない(前向性)健忘症になってしまう。だが、ヘンリーはその症状の出方の純粋さ(記憶障害しかない)から世界中の研究者に(イニシャルだけで)知られる存在となる。著者はそのヘンリーを担当した研究者であるが。研究者としてだけでなく著述家としても優れている。科学研究を紹介した本は成果をただ羅列するだけの無味乾燥に陥りやすいが、他の科学的成果に言及したり科学史を参照したりしながら自分の研究を解説するのがこの著者はとてもうまい。そしてなによりも、ヘンリーを直接に知る人物としてその人柄が分かるように具体的に描かれているのが素晴らしい。記憶の科学の啓蒙書としてだけでなく、生きた患者を扱う生き生きした神経心理学を伝えた著作としても優れている。
全体的に科学書としては分かりやすく書かれていると思うが、たまに(心理学の)知識がないと読むのがきつい箇所がいくつかある。特にプライミングについてはやはり説明不足感はぬぐえない。とはいえ、たとえ入門書であってもプライミングについて初心者にきちんと説明するのは大変だと思うので、あまり多くを求めるのは酷かもしれない。むしろ、H.Mについての研究成果を科学史や他の科学研究に言及しながら無味乾燥にならないように分かりやすく説明できている点では、諸々の科学書の中でもトップクラスに入れてもいいくらいだ。H.Mについての単著というだけでも価値があるはずだが、その期待を上回る出来には舌を巻くしかない。
ひとつだけ原著とは無関係な文句を挙げると、やはり日本語版のタイトルに問題がある。この本の題名からは誰かの人生を描いた単なるノンフィクションだと勘違いされそうだが、その内実はほとんど科学書である。そもそも「物覚えが悪い」という言い方自体が(新しいことを覚えられる能力そのものがないのだから)誤解を招く。原題は「永遠の現在形─記憶をなくした男と彼が世界に教えてくれたこと─」であり、もう少し原題を生かした邦題にしてほしかった。本当に読んでほしい人に届けるためにももっと適切なタイトルをつけてもらいたい。
H.Mを担当した研究者による報告としてだけでも貴重だが、(認知科学的教養に基づいた)記憶の科学についての分かりやすい概論としても優れている。この手の本(認知科学関連の著作)は似たり寄ったりの内容だったり無味乾燥だったりしがちで、良くて自分自身の研究を扱った章だけなら面白い…にとどまりがちだが、これは読み通して全体を面白かったと言える稀有な科学書だ。記憶の科学に少しでも興味があるならぜひ読んでもらいたい。

  • 追記:2015年上半期のベスト認知科学書が「美味しさの脳科学」なら、下半期のベストはこの本に決まりだ。部分的に面白い本なら他にも色々あったけど、全体として優れていたのはダントツでこれら。どちらも一般向け科学書だけど、本当に感心するには素養が必要かもしれない。認知科学好き(だった?)の私としては、前者でのイメージ-命題論争への言及や後者での「プランと行動の構造」や「心の概念」への言及とかには驚いた。専門家として優れていながら単なる専門バカではない科学的教養のある学者によって書かれた著作を読めることは幸せだ(残念ながら心理学者の書いた本は大して面白くない本が多いので余計に貴重)。レビューしたこの著作はその全体に潜むテーマが二重過程説である点でカーネマンの本と共通点がある…みたいなことは(流れ的に)書評に書く余裕がなかった。最終章でのヘンリーの死後に彼の脳を保存するプロジェクトの話も面白いのだが、もちろんそれにも触れられなかった。

ぼくは物覚えが悪い:健忘症患者H・Mの生涯

ぼくは物覚えが悪い:健忘症患者H・Mの生涯