いろいろ愚痴を言いながらも近年見られた新しい進歩史観だけは指摘しておく

前回の記事でも取り上げた「いま世界の哲学者が考えていること」は、近年の日本の出版状況を考えれば良作の部類には入るのだろうが、やはり不満は多い。前回の記事の注でも指摘したが本来の哲学の話は最初の方にしかない。その哲学の話に関しても、自然主義に注目したのは悪くないのだが、日本の独自の事情のせいで偏った紹介になっている。そこで紹介されている、後半の道徳心理学に関しては実際に最近の議論だし自然主義の例としてふさわしい。しかし前半の認知科学で言われるところの身体化論(Embodiment)については、たまたまその代表的な論者であるアンディ・クラークの著作の翻訳が最近になってやっとなされたせいで一部の人に注目されただけであって、その源は二十世紀末とそれほど新しいわけではない上にそもそも近年の自然主義の文脈で出てきた話でもない。自然主義については適切な記事なり著作なりが日本にはほとんどない状況に*1、何か記事を書こうかと前々から計画だけはしていた。しかしこれまた前回にも書いた理由で計画通りのきちんとした記事を書く気はしない*2。だから今回もただ思ってることをだらだら書くだけにしてみた*3
早速自然主義について書いてもいいのだが、独立した記事にしようと思った程度には分量が多くなるはずなのでそれはまた気が向いた時に後回しにして、今回は気にしていた別の件から片付けることにする。「いま世界の哲学者が考えていること」の哲学の章への不満には既に軽く触れた。この本の残りの部分は社会論評的なものの紹介に費やされている。歴史的に見れば哲学は社会評論的なものとはあまり関係がないのだがそこは脇に置く。その部分には様々なものが紹介されていてそれなりに参考になるのだが、私が知っている範囲でなぜこれが取り上げられないんだろうと思うものがある。それはリドレー「繁栄」やピンカー「暴力の人類史」(アセモグル&ロビンソン「国家はなぜ衰退するのか」も?)で主張されている新しい進歩史観である。どちらも欧米では話題になりヒットした本なのに、日本であまり話題にならない。彼らの進歩史観は、昔のヨーロッパにあったような(西洋中心主義的な)イデオロギーとしての進歩史観ではなく、経験的なデータに基づく新しい進歩史観である。経験的なデータに基づいている事自体が方法論的自然主義と関わり*4があることは脇に置くにしても、この不思議なくらいの日本での無視のされ方は見事すぎる。ときどき日本ではみんな特定の内輪でしか通用しない特定のネタで盛り上がることに夢中な人ばかりで知的好奇心を持った人はもはや絶滅危惧種なのでは…と危惧してしまう。新しい進歩史観についてここで真偽を論ずるつもりはないのでこれ以上は突っ込まないが、いくらなんでももう少し知られていてもいいんじゃないか?

*1:数少ない例外が「多元論的自然主義の可能性?哲学と科学の連続性をどうとらえるか」の第一章が、クワインの諸著作から(そうと名指しはされていないが)方法論的自然主義存在論自然主義を抽出した見事な論文である。ただし第一章のあまりの素晴らしさに比べると残りの章は疑問に感じるところが多いので注意

*2:スマホSNSの普及で情報は無料で手に入って当然という人が多くなった。その多くがおそらくウィキペディアがどういう考え方のもとに作られたのかも分からないのかもしれない。こういうメディア・リテラシーのない人たちがフェイクニュースなり大げさに書かれたネットニュースなりを平気で受け入れいるのだと思うと暗鬱としてくる

*3:それでも下らない炎上が起きない程度には気をつける必要はあるのでめんどくさい。

*4:その点ではセイラー&サンスティン「ナッジ」(邦題「実践行動経済学」)が日本ではあまり話題にならなかったことも奇妙だ。邦題のセンスの悪さもあるがそれにして無視されすぎだ