生態学的妥当性を軽く復習する

理性の起源: 賢すぎる、愚かすぎる、それが人間だ (河出ブックス 101)」は、現在の日本での認知科学への理解の低さを考えるとよく出来た本である*1。その中に「生態学的」の意味は「実験室の外で」あるとしているが、この用語の用法のオリジナルとなる文献は欧米の哲学者でさえあまり指摘しないので、軽くそれに触れておく。

生態学的妥当性(ECOLOGICAL VALIDITY)とは、現実の世界において自然に起こっている行動に関する研究が持つ属性である。…(中略)…Neisserによれば、認知心理学者は「日常場面において、そして目的をもった自然な活動の文脈のなかで生まれる認知を理解すべく、より一層の努力を」することによって生態学的妥当性を追求すべきである。

心理学で生態学的というとJ.J.ギブソンが有名だが、その影響を受けてナイサーが実験室内の特殊な状況による結果を日常的場面にまで一般化することの危険性を指摘したのが、この生態学的妥当性という用語を提出した動機となっている。ナイサーがこれを指摘した本「認知の構図(原題:Cognition and reality)」が出たのが1976年だが、その後の1980年代以降に起こる認知科学の第二波とも呼ばれる身体性や日常性への転換の先駆的成果となった。しかし、二十一世紀に入って認知神経科学進化心理学のブームの中で第二波的な考え方は忘れ去られていき、せいぜい身体化論が(経験科学から離れて)一部の哲学者の玩ぶ題材と化していったところがある。しかし、生態学妥当性という問題は認知神経科学にこそ当てはまったりもする。忘れられた話題が重要でないという訳でもないのだ。

*1:とはいえ著者の留学先の指導教官の影響が相当に大きいようだ