フォーダーとピシリンの共著「Minds without Meanings」(出版済み)の草稿を読む

ネットで調べ物をしていてある論文を読んでいたら、数年前にフォーダーがピシリンとの共著「Minds without Meanings」を出していたのを知ったのでさらに調べてみたら、その更に数年前に書かれたその本の草稿が見つかったので大雑把に目を通してみた。第二章の概念は何でないのか?の議論などは入門者向けにも適切かもしれないとか、第四章の知覚研究の紹介は全体から浮いてないかとか、思ったことはいろいろある。この本全体でやりたいことはおそらく意味(概念の内容)についてフォーダー自身の説を支持するためにそれ以外の説を批判することではないかと思うのだが、実際の所フォーダー自身の支持する意味論の説明は直接にはないので分かりにくい。Inferential Role Semantics(IRS)への批判ってのはセラーズへの言及を考慮すると実質は概念役割意味論への批判だろうし、実際に過去に行なった批判(全体論と合成性による批判)と内容が似ている(「意味の全体論―ホーリズム、そのお買い物ガイド」)。そして問題は指示(Reference)の問題に集中するのだが、その過程で知覚研究に触れることになる(ピシリンはこの辺りで協力?)。さらにクリプキやPurely Referential Semantics(PRS)への言及を目にする内に、こっちがフォーダーの支持したい立場ではないかと推測できる。そこでこの草稿を離れてしまうと、一般的にフォーダーは情報論的意味論と呼ばれる意味の因果説を提唱していることが知られている。そういえば草稿ではCausal/referential semanticsという言い方もされている。つまり、クリプキもフォーダーも指示を対象と結びついた因果的な説を採用している点で共通点があるのだ。ただし、フォーダーの場合は言葉と対象をいきなり結びつけるのではなく、心的表象を介して結びつけているのが異なる。この心的表象がフォーダーが思考の言語と呼んでいるものだ。
フォーダーの意味論への批判としては選言問題が有名である*1が、一般化すればパトナムの指示の魔術説批判がそのまま当てはまってしまう。心的表象(思考の言語)はまだ認めてもいいが、意味の因果説はやはり厳しい気がする。情報論的意味論として一緒に括られるミリカンやドレツキは進化や知覚の理論だから受け入れられるのであって、フォーダーのように意味の理論としては難しい。つまり、言葉が(心的表象を介して)その普遍に対応する物を示すと言い切るのは無理がある。フォーダーがとてつもなく鋭い学者だと思うが、その一方で特定の説に固執しているようであり、納得できる理由さえあれば平気で転向するパトナムとは対照的な哲学者だと思った。