トップダウン効果は本当に知覚を変えているのか?

モジュールのカプセル化に関する議論

哲学者が科学的成果に則って論文を書くことは近年になって増えてきたが、たまたま見つけた「Opening Up Vision:The Case Against Encapsulation」(PDF)もそんな論文の一つだった。内容はフォーダーのモジュール論の特徴であるカプセル化を批判するもので、論文の半ば辺りで認知神経科学の具体的な成果に触れて議論を進めるところはまさに今どきの哲学論文らしい。フォーダーの主張し始めたカプセル化とは心のモジュールの特徴であり、ここでは(初期)知覚と高次認知との間の関係として論じられている。カプセル化を説明する前に、まずその論拠の一つを説明してしまう方が手っ取り早い。そのカプセル化を支持する論拠の一つはミューラー・リヤー錯視にある。ミュラー・リヤー錯視は、ネットで検索すれば該当の図がすぐに出るはずだがと、物理的に同じ長さの線分が見た目には違った長さに見える錯視現象のことである。このミューラー・リヤー錯視において、たとえその錯視についての知識を持っていても錯視という見え方は変化しない。つまり、知っているという高次認知はどう見えているかという知覚に影響を与えないことから、知覚能力は他の心的能力から独立している点でカプセル化されていると呼ばれる。
こうして論文の前半はカプセル化の説明に費やされているが、中間部分の認知神経科学の成果に基づいた議論は私には評価しきれないので省略すると、後半では初期知覚のカプセル化トップダウン処理によって批判されている。トップダウン処理とは*1、(論文にあるものではないが)古典的な例としては同じ視覚的刺激でもそれに付けられたラベルによってその見え方が異なる研究が分かりやすいだろう。トップダウン処理現象の存在によって知覚能力が他の心的能力から独立していることが否定されている。細かい議論は面倒なので触れないが、カプセル化への批判という議論の全体の流れは明確だ。ミュラー・リヤー錯視に関する議論はかなり強力なのでそれをどうするのか?という疑問も湧いたが、と同時にトップダウン処理というのは結構昔から知られていたはずだからフォーダー自身はそれをどう扱っていたのか?と思って調べたのだが、今の私には調べきれなかった。しかし、この件とは別にたまたま見つけて読んだ論文がこのテーマに関連した話題を扱っていたのだが、その論文の面白さに興奮してしまった。

認知は知覚に影響を与えるか?

あるサイトで参照されていて見つけた論文「Cognition does not affect perception:Evaluating the evidence for “top-down”effects」(PDF)が、読んでみたらあまりに面白かったのでびっくりした。その面白さは知識や事情が分からないと伝わらないので、大雑把に内容の説明だけします。この論文で扱われているのはトップダウン処理だが、既に紹介した例は古典的な例だが、近年になってもっと様々なタイプのトップダウン処理が報告されるようになった。様々な現象が報告されているが分かりやすい例だけ挙げると、例えば文字に色のついた語句を提示した時に、その語句が(道徳的にや感情的に)ポジティプな意味を持っている時の方が、その語句がはっきりと見えたり色が濃く見えたりする現象が報告されている。古典的な例では主に概念が見え方に影響を与えているが、新しいタイプのトップダウン処理では付属するもっと様々な状態が見え方に影響を与えているとされている。こうした新しいトップダウン処理は昔ニュールックと呼ばれた現象、貧しい子供は富んだ子供よりもコインの大きさを大きく知覚していることを示した研究、の蘇りとも言える。
トップダウン処理の特徴とは、意味や思考が関わる(より高次の)認知が物の見え方のような(比較的低次の)知覚に影響を与えることであり、(より高次の)認知が知覚に侵入する(penetrate)とよく言われる*2。この論文ではこうしたトップダウン処理を疑っているのだが、それは最近話題になっているような再現可能性からの疑いではない。むしろトップダウン処理を示しているとされる実験への解釈の問題と言え、それをいつかの落とし穴として提示している。
実験への解釈(評価)の仕方は(再現可能性に劣らず)心理学では大事な要素で、古典的な例では賢い馬ハンスがあるが、こうした批判からその批判を交わす洗練された実験法が開発されたりと心理学を動かす力となっている。この論文ではトップダウン処理(の実験を評価するための)の落とし穴が具体的な研究を挙げながら説明されている。ここではそのうちから分かりやすいものを幾つか挙げると、知覚と判断の区別がついているのか?、案に答え方が偏るような要求をしていないか?、刺激に意図しない微妙な違いがあるのではないか?、知覚よりも記憶の問題になっていないのか?…などの落とし穴がある。この論文にはとても読みきれないほど多数の学者からのコメントがついているが、ともかくトップダウン処理の実験への解釈に重大な疑義を挟んだことだけは確かだ。

終わりに

前半で取り上げたトップダウン処理を示す現象によるカプセル化批判は分かりやすいものであるが、後半で取り上げたようにそれは少なくともそのまま受け取るには疑わしいものである。この問題には様々な議論が関係しており私にはとても追い切れないし、私が思いつくものに限っても、知覚と判断は分けられるのか?モジュールのカプセル化と脳の機能局在化はどのような関係か?とかこのまま続けて書ける程の内容ではない。ともあれ、このように科学は(民主主義と同じく)結果だけではなく過程こそが大事なのだ…という点はいくら強調しても切りはない。

*1:トップダウン処理についてはネットで調べたのですが適切なものがありません。図を伴った説明なら→http://www.dokuji.net/model.htmlだが、これも説明が簡単すぎるのが欠点

*2:認知という言葉には広い意味と狭い意味があり、認知科学における認知とは心の能力を幅広く指す広い意味だが、一般的に使われているのは狭い意味の方が多い、それにしても、認知と行動・認知と知覚・認知と感情…と何と対照されるかで含意は微妙に変化する。とはいえ、一般的には思考や言語のような人間ならではの高次の能力を指すことが多い