経験的研究と理論的研究の生産的循環としての研究プログラム

私は最近、進化心理学にとってモジュール論はいらない!という文章を書こうとして、ネットで手に入れた関連した論文を読んでいる。私が思いつくようなアイデアなんて大して独創的な訳もなく、実際に似たアイデアを提示した論文はなくもなかった。とはいえ、納得できる論旨の論文は見つからないので、探求は引き続き続行中だが、その中で次に引用する論文を見つけた。

進化心理学が心の計算理論に取って代わることが出来なかったのは、それが心の計算理論だったからだ。進化心理学は「標準的な」計算的認知心理学と進化生物学の適応論プログラムとの結婚だった。
(Louise Barrett,Thomas V.Pollet and Gert Stulp"From computers to cultivation:reconceptualizing evolutionary psychology" p.2より)

この論文("From computers to cultivation:reconceptualizing evolutionary psychology")そのものは、進化心理学についてとタイトルで言っておきながら、その実質はモジュール論批判と計算論批判という私のような認知科学オタクからすると耳にタコができるほど聞かされた議論だし、その結論も進化心理学に取って代わるのは身体化論だという私のような認知科学オタクには見込みのない見解にがっくりしてしまった(身体化論の源の一つであるヴァレラら「身体化された心」がトゥービー&コスミデスの有名な進化心理学の論文よりも出版が早いのにこの現状なのだから、研究プログラムとしての見込みはなんとやら…)。しかし、ここで問題にしたいのはそんな(つまらない)ところではなく、引用文に暗示されている著者らの進化心理学観だ。
この引用文の前半は知識なしに表面的に読んでもおかしなことを言っている.正確には、確かに正しいことを言っているだけれど、自明なトートロジーでわざわざ書く必要がない。認知科学の主流である計算的アプローチに対してのあまりにあからさまな敵対視は結論まで読むまでもなく既に明らかになっている。そして、まさにその偏見のせいで進化心理学(の登場の歴史)に対して正当な見方ができていない。

社会生物学進化心理学に類似のパターンを見つける

進化心理学は(人の)心への進化的アプローチの一種であるが、それは進化心理学の登場以前から既に存在していた。それは社会生物学(行動生態学)である。過去の社会生物学をめぐるややこしい論争について詳しくは「社会生物学論争史」に任せる。過去の論争はどうであれ、結局のところ社会生物学は科学的研究領域として成功した。にも関わらず、(人の)心への進化的アプローチとしては社会生物学よりも進化心理学が受け入れられた*1。それはなぜだろうか。その理由こそ引用文にあるように「進化心理学が「標準的な」計算的認知心理学と進化生物学の適応論プログラムとの結婚だった」からだ。
進化心理学登場以前に、大著「社会生物学」で有名なウィルソンは人の心への進化的アプローチを既に行なっていた。にも関わらず(人の)心への進化的アプローチとして広くうけ入れられたのは進化心理学だった。その訳は、進化心理学が既に認められていた認知科学の成果に則って議論を進めていたからだ。ウィルソンにはそのような議論のための確固とした研究領域に頼ることが出来たわけではなく、そのこころざしにも関わらず単発の試み以上の広がりを持たなかった。進化心理学認知科学(その主流の計算的アプローチ)というそれ自体が有望な研究領域と結びつくことで、新たな研究プログラムを提示できるようになった。実はこうした進化心理学の研究プログラム*2としてのパターンには、成功した先輩にも見られたものだった。その成功した先輩とはまさに社会生物学だ。
社会生物学は動物の行動を説明するという点ではやはり心への進化的アプローチの一種である。それを進化心理学の結婚になぞらえて例えると、社会生物学は動物行動学(エソロジー)と進化論(特に集団遺伝学)のプログラムとの結婚だったと言える。社会生物学においては動物行動学の経験的な研究成果に集団遺伝学から借りた遺伝子中心的な理論が組み合わされている。このような経験的研究と理論的研究の組み合わせは、社会生物学進化心理学とで一致している。確固とした成果を探す経験的研究と客観的に巧みな議論を提示する理論的研究はうまく組み合わされると最高の科学的な研究プログラムを生み出す。その点では、社会生物学は多くの批判にも関わらず生産的な科学として成功したと言える。では進化心理学はどうだろうか?

進化心理学を研究プログラムとして評価する

Darren Burke"Why isn’t everyone an evolutionary psychologist?"進化心理学が主流の心理学にはあまり受け入れられていないことを懸念して、その訳を分析した論文だ。確かに進化心理学は心への進化的アプローチとしては社会生物学よりも広く受け入れられた。熱心な研究者もそれなりに多い。とはいえ、受け入れられた領域は社会生物学ほどには広くなく、お世辞にもそこまでは一般化していない。その理由はいくつか挙げられるし、モジュール論もその理由の一つだと思われる。モジュール論について書きたいことはあるが、今回の論旨とはズレるのでそれは別の機会にする。ここで問題にしたいのは、進化心理学の(ラカトシュ的な)研究プログラムとしての評価である。
社会生物学進化心理学も経験的探求と理論的論議が組み合わされた研究プログラムを提示している事は既に述べた。しかし、社会生物学進化心理学では経験的研究と理論的研究との間の関係がかなり異なる。社会生物学においては、動物行動学による経験的成果が遺伝子中心の理論的研究によって論じられるだけでなく、遺伝子中心の理論的研究が経験的に検証可能な仮説を生み出して経験的研究に還元しているという良き循環が成り立っている。ところが進化心理学においては認知科学の経験的成果を適応論的に論じることはよくなされているが、逆に進化心理学的な仮説が経験的に検証される機会はとても少ない。進化心理学においては経験的研究から理論的研究へと関係が主に一方方向で、理論から経験的研究への還元が少ない。進化論への正しい理解以前に*3、このような一方的な搾取関係に耐えられない研究者は多いのかもしれない。経験的探求に基づいた心理学理論にとって進化心理学の理論は対等な関係ではなく一方的に説明を与えられるメタ理論でしかない。「なぜ誰もが進化心理学者でないか」(Darren Burke)の理由はまさにそこにあるのだ。
ちなみに、進化心理学以前から心の進化論的アプローチを提示していた身体化論(ギブソンやヴァレラ)は、そもそもの身体化論そのものが研究プログラムとしての生産性が低いので今のところ見込みは薄い。もちろん進化心理学であれ身体化論であれ現時点での私の評価であって将来のことは分かりません(とはいえどちらも登場以来少なくとも二十年超えているのだが)。

*1:以下では、社会生物学と(古典的)進化心理学を別物として扱うが、デヴィット・バス性淘汰論のように微妙な例もある。ここでは標準的な見方に従う

*2:研究プログラムという言葉は科学哲学者ラカトシュに基づくが、アイデアを借りただけで厳密には同じではない。研究プログラムであれ機能主義であれ、哲学的に厳密に論じると問題が多いのだが、大雑把な考え方としては現実を説明するのに役に立つ哲学的概念はある。私は厳密な議論も理解できなくもないが、最終的にはプラグマティストの立場に立つ

*3:実は心理学には適応論的な進化心理学よりも前に既に系統発生的な比較心理学が普及しており、それが近年の霊長類研究の隆盛と結びついている。だから心理学者が進化論に不慣れと言う訳では必ずしもない