認知のベイジアンモデルについて(フライング気味で)考えてみる

認知科学ベイジアンモデルはただいま勉強中で、直接に解説できるほどの理解には達していない。とはいえ、以前に比べればベイジアン・アプローチについて何となくのイメージは掴めるようになったので、地道ながら進歩はしていると思う。ただ、私がベイジアンについて勉強するにはその道がちょっと険しいので苦労している。
ベイジアン(ベイズ主義)とは、これまで長い間主流であった頻度主義とは対照的な統計学の考え方である。私が学生時代に授業で習った心理統計はもちろん頻度主義の統計だったが、21世紀に入ってから統計のベイズ主義が台頭してきて隆盛を極めつつある。個人的にベイジアンには興味があったので勉強するのは構わないのだが、私のような認知モデルに興味がある人間にはその道は案外険しい。
ベイジアンといっても、その用途は統計的検定、機械学習モデリングと幅広い。それぞれに用途に合ったベイジアン解説書はいろいろあるのだが、私が興味を持っている認知モデルを扱った日本語の文献は極端に少ない。どの用途でもベイジアンの基本であるベイズファクター、ベイジアンネットワーク、階層ベイズといった部分は共通だが、その用い方にはやはり違いがある。こういうのは興味に合わせて勉強しないときついので、仕方ないのでネットで文献を検索してみた。すると、ベイジアンを用いた認知科学的な研究では代表的な研究者であるJoshua B.TenenbaumやThomas L.Griffithsrらの研究グループによる入門的な論文が優れていて、とても勉強になっている。ベイジアンモデルについてはまだ勉強中なので詳しい中身には触れないとして、更に調べてみると面白い論文に出会った。Matt Jones&Bradley C. Love"Bayesian Fundamentalism or Enlightenment?On the explanatory status and theoretical contributions of Bayesian models of cognition"というベイジアン認知科学への批判的論文だ。

Jones&Loveの論文「ベイジアン原理主義啓蒙主義

この論文では認知科学へのベイジアン・アプローチを原理主義啓蒙主義に分けて批判的に検討している。正確には、私はこの論文のすべてを面白いとは思ってはいない。ベイジアン・アプローチについての説明も紙面は割かれているが、これは他にもっと優れたものがあるのでそこは脇に置いても問題はある。この論文の全体の流れとしては、ベイジアン・アプローチをマーの三つのレベルの中に位置づけてから、基本をさらっと紹介した後で、ベイジアン・アプローチを行動主義や進化心理学と比較し、最後はベイジアン・アプローチの原理主義を批判し啓蒙主義を薦めて終わっている。この中では行動主義との比較が断トツに面白くて、残りは議論に問題があったりしてそこまでは興味深いものではない。
例えば進化心理学との比較については、旧態依然とした適応万能主義への批判が述べられていて、(言いたい事は分からなくもないが)正直読んでいてうんざりしてしまった。しかし何と言っても、この論文にはJoshua B.TenenbaumやThomas L.Griffithsrらの研究グループによるコメントがついていて、その批判がいちいちもっともだったりする。まずベイジアン・アプローチはマーの言う計算論レベルしか扱っていないとされているがそれはおかしいと指摘している。そもそもベイジアン原理主義なるものが存在するのかどうか自体が怪しいと批判している。この辺りの批判はいちいちもっともで、ベイジアン原理主義を批判する最後の章は具体的な研究への言及が少なく話がどことなく抽象的で、読んでいて得られる物があるのかないのかよく分からない。もっとも啓発的な議論はベイジアン・アプローチを行動主義と比較した章で、この論点を中心に話を広げればもっと面白い論文になるのに…と惜しくてならない。少なくとも私はこの章を読んで何となく感じていたモヤモヤから目を開かされた。
私自身は認知科学ベイジアン・アプローチについては、帰納推論や因果推論についての研究を紹介した日本語の論文を読んで、ベイジアン・アプローチの可能性に気付かされた。しかし、ベイジアンについて勉強している内にこれらは認知モデルとしてかなり分かりやすい例であって、他のものはどうにも分かりにくくてしっくりこない。これは私の勉強不足もあるだろうが、何となくモヤモヤとしたままだった。そこでこのベイジアン・アプローチを行動主義と比較をした章を読んで、もしかしたら…と思うようになった。
(心理学的な)行動主義(特にスキナーの)についてはここでは詳しく説明しないが、基本的に条件付けを中心にした理論で観察可能な行動だけを説明に用いるのでもちろんモデルなんて関係がない。そんなものはベイジアン・アプローチとどう関係あるのかというと、(新)行動主義は実験で観察される行動データと一致した理論を提示しているが、ベイジアン・アプローチも表面的にデータと一致しているだけという点では行動主義の理論と違いがないのではないかと言うのだ*1。ただし、この議論はベイジアン・アプローチがメカニズムを扱っていないという指摘を前提にしているので、Tenenbaumらの批判的コメントからするとそのまま受け入れるのは問題がある。しかし、提示されるベイジアンモデルが複雑なものになればなるほど、本当にこれは認知モデルとして相応しいのか?、こんな複雑な計算を脳がしていると考えるのが妥当なのか?、私には怪しく思えてくる。
私が最初に感銘を受けたベイジアン・アプローチの帰納推論(「認知科学におけるベイズ的アプローチに関する文献の紹介」PDF)では、同じデータでも事前確率によって推論される確率が変化してしまう。これが友人による超能力実験のデータとされるとそれはめったに起こらないと前提されるので事後確率はそれほど上がらない(サイコロの目を当てたのはただの偶然!)。これが新しく開発された薬品の実験とされると同じデータでも超能力者条件の場合よりも偶然だと判定される率が低くなる。この研究の場合は解釈が比較的に容易なので、これを認知モデルとして考えるのは不自然さがあまりない。しかし、これが例えば階層ベイズを用いた複雑なモデルとなると、それが認知モデルとして相応しいのか私はさっぱり分からない。マルコフ連鎖モンテカルロ法が脳の中でなされていると考えるのが妥当なのか私にはうまく想像できない。これは単に私の理解不足のせいかとも心配していたが、少なくとも似たような不安を持っている人が世の中に入るのだと分かったら、(それが本当に正しいかどうかは別にして)ちょっとホッとした。

認知のベイジアンモデルの問題を考える

なぜデータと一致しているだけの複雑な理論に問題があるかというのは、天動説と地動説の対立を考えると分かりやすい。天動説に疑いが生じた原因の一つに、観測される天体の動きのデータを一致しない(例えば逆向)ことがある。だが、天動説に複雑な修正を加えて観測される天体の動きのデータと一致させた理論が提出されたことがある。単にデータと一致している点では複雑に修正された天動説と地動説とで違いはない。しかし結局は地動説が受け入れられるようになることは周知のとおりだ。データと一致させるために理論をいくらでも複雑にしてもいいなら切りがない*2。科学にとって経験的データとの一致は重要だがそれが全てではない。
認知モデルとしてのベイジアンモデルには、他の用途のベイジアンとは異なる問題もある。それはベイジアンの他の一般的用途(統計的検定や機械学習や科学モデル作り)では、基本的にベイジアンはあくまで手段として用いられているので、最適値(方程式の近似値)を見つけさえすればよいのであって、解を見つけるその過程は問題にならない。しかし、ベイジアンが組み込まれた認知モデルの場合は、脳が最適値を見つけていると仮定するとしても、その見つけ方によってはそれが認知モデルとして相応しいかは場合によっては怪しくなってくる。帰納推論や因果推論のようなシンプルなモデルなら受け入れられるが、もっと複雑になると私にはもう判断できない。
たとえベイジアン・アプローチがメカニズムを提示していたのだとしても、それが本当に認知モデルとして相応しいかは別の話だ。それを理解できるようになるためにも、ベイジアンはもっと勉強しとかないとなぁ〜

*1:これは行動主義の理論への批判にはなっていないことに注意。適切な適用範囲でありさえすれば行動主義の理論には問題はないが、ベイジアン・アプローチの場合は万能気味でマズイ

*2:機械学習における過学習(overfitting)と一見似ているが、やはり違う。工学の場合は中身の機構がどんなに複雑になっても、それでうまくいっているなら問題はない。科学の場合はそうはいかない。ここに科学と工学の違いがある。今日では科学と工学が密接に接近していっている(リバースエンジニアリングとしての科学)だけに、その違いに注目する必要もある