predictive codingに関連したいくつかの疑問

ここ近年はpredictive codingについて調べることが多い。これはアンディ・クラーク経由で知ったのだが、科学者であれ哲学者であれ話題にする人は増えてきている印象がある。日本語の文献についてはいいものがなくて長らく困っていたのだが、やっと「予測的符号化・内受容感覚・感情」を見つけたので、詳しい説明はこちらをお勧めします。とはいえ、より理解を求めて勉強するには英語の文献を読むしかなく、理解の浅いテーマを外国語で読むのはきつくて苦労している。中には話題の流行に乗っている感の強い学者もよく見かけ、一時的な流行なのか本物の普遍理論なのか判断しかねるところもまだある。まだこの辺りは学習中で間違いや勘違いもあるかもしれないが、勉強と備忘録を兼ねて、ここではpredictive codingについて疑問に感じたことをいくつか挙げてみたい。

predictive codingにベイジアンは必須なのか

ベイジアンについてネットで調べているとpredictive codingに触れているのを見かけることは多い。今現在の私はベイジアンは勉強中だが、predictive codingのベイジアンとの関係にはピンとこないところがある。表面的には、冒頭で上げた日本語論文にあるように、事前確率と予測モデル、尤度と現実からのデータ、事後確率と結果としての心的状態という関係は分かる。しかし、私が最初にベイジアンモデルを評価するようになったGriffiths&Tenenbaumの研究がベイジアンを認知モデルに直接に利用しているのに比べると、predictive codingとベイジアンの関係はアナロジーでしかないような気がしてならない。せいぜい感覚運動(sensorimotor)の数理モデルになら直接適用できるかもしれないが、普遍理論として提出されているpredictive codingに対してはベイジアンが比喩の域を超えていない気がしてならない。
ちなみに、あるアンディ・クラークのフォロワー学者がベイジアンについてGriffiths&Tenenbaumの研究とpredictive codingを比較して前者をけなしている不勉強な中身のない論文を読んだが、アンディ・クラークの目ざとさ(先見性)には感心するが、アンディ・クラークのフォロワーにはろくなのがいないなぁ〜と改めて思ってしまった。

predictive codingに身体化論は必要か

アンディ・クラークはもともと身体化論の代表的な論者として有名だが、predictive codingの話をする上でも身体化論と結びつけることが多い。クラークのフォロワーは喜んでそれを受け入れて取り上げるのだが、自分はどうもモヤモヤする。predictive codingを身体化論を結びつけるのは話としては興味深い面白いものだと思うのだが、その結びつきは必然的なものではない気がする。
predictive codingというのは元をたどると歴史が案外深く、よく参照されるFristonやRao&Ballardどころではなく、predictive codingの源である小脳の内部モデルはそれ以前からすでにあったのだが、もちろん元々身体化論との結びつきがあったわけではない。身体化論が結びつくのはpredictive codingが得意とする感覚運動(sensorimotor)との関連があるからだが、普遍理論としてのpredictive codingと身体化論がどう結びつくのかは(エントロピー論を超える具体的な計算論的モデルが大して目につくわけでもなく)曖昧なところも多い。それどころか、知覚とは外界からの直接知覚(ギブソン!)ではなく、心にある世界についてのモデルからの帰結だと考えると、むしろ観念論だと捉えるほうが自然な気がしてくる。
ここまではクラーク・フォロワーへの文句ばかりになってしまったが、次は方向性が違う。

predictive codingはカントと結びつくのか

The Predictive Processing Paradigm Has Roots in Kant」なる論文を見つけて読んでいたのだが、哲学史の知識のある自分には違和感だらけで途中で読むのやめてしまった。その最たる論点はカントが知覚のトップダウンの源だという話だ。これは浅い知識だと一見して正しそうに思えるが、やはりおかしい。(なぜだかこの著者は参照していない)セラーズによって知られるようになったカントの思想「概念なき直観は盲目である」は確かにトップダウンのように見える。しかし、トップダウンボトムアップと対になっており、そうでなければ特定の現象をトップダウン効果とわざわざ呼ぶ必然性はない。しかし。カントの言葉からは(少なくとも認識論的には)そもそも純粋なボトムアップ(つまりセンスデータ)だけでは意義がないことを言っているのだから、(ただのトップダウン効果よりも)その適用範囲はもっと広い。カントとトップダウン効果を結びつけるのはただの連想ゲームであって、実際の哲学史には沿っていない。
この論文への悪口は言っていると切りがないのだが、ここは決定的な批判となる有名な現象学者ザハディがこの論文を取り上げての批判を挙げて終わりにする。個人的には、カントは心の科学の可能性を根本から否定したというエドワード・リードの指摘も思い出す。

Swanson further argues that predictive coding theory can be “seen as a major step in the evolution of Kant’s transcendental psychology” (2016: 10)…(中略)…One might wonder, though,whether the naturalism of predictive coding theory is not ultimately incompatible with Kant’s transcendental framework.

引用部分後半の翻訳→「predictive coding説の自然主義はカントの超越論の枠組みとは究極的には両立しないのではないか?と勘ぐる人もいるだろう。」