クリス・フリス「心をつくる」

心をつくる―脳が生みだす心の世界

脳イメージ研究の大御所が一〇年以上前に予測脳について書いていた先駆的な心の科学入門の書

近年、心の科学(認知科学)界隈で予測脳(予測的符号化)がよく話題になっているのだが、その関連でこの本の原著の存在を知った。その後で翻訳の存在を知って手に入れて読み始めた。翻訳書の発売当時にも書店の新刊棚で見かけた覚えがあるはずなのだが、その頃はよく出てた心の科学入門のひとつ程度にしか思っていなくて、きちんとは目を通してはなかった。その判断は半ばは間違っていなかったのだが、もう半面の興味深さは今になってやっと理解できるようになった。確かにこの本の前半は二重過程説に則った心の科学入門であり、そんな本は既に山のように出版されている。しかし、後半の予測脳についての分かりやすい解説は今もって他に代替品のない貴重なものとなっている。一〇年以上前に出た本なのに、長らくの認知科学マニアである私のようなすれっからしでも面白く読めることに驚いた。(今この本の価値を正しく評価できる人がいるとはとても思えないが故に)こんなに強くお勧めしたいと思った科学書は私としては珍しい。
著者のフリス・クリスは初期の頃から脳イメージ研究に関わっていた心の科学における大御所だが、この著作は一般向けに書かれた心の科学についての入門書だ。文章も読みやすく本当の素人でも分かりやすく書かれている。その時点で心の科学入門としては良書だし、日本での評価はそんな感じであり自分もそう思っていた。特に第一部は二重過程説に則った心の科学についての解説であり、よく書けている方ではあるがそうしたテーマの本は日本でもたくさん出ていて珍しいものではない(おそらくその中で最も有名なのはカーネマンの行動経済学の本だろう)。私のこの本への当初の評価もこの辺りに沿っていたのだろうけれど、実はこれは後半の解説の準備でしかなかったのに気づくのはつい最近になってからだ。
この本の第二部は予測脳(予測的符号化)についての解説になっている。こここそが今もって持っているこの本の価値であり、(最近になって関連本が少しは出始めたが)ここまで分かりやすい解説は今でも代わりとなるものはないに等しい。強化学習(条件付け)、自己、ベイジアン、といったことを話題にしながらいかに脳が予測を用いているかが分かりやすく解説されている。ただし予測と言っても意識的にする予測ではなく、脳が無意識にする予測のことであり、それによって私達は日常生活をスムーズに営むことができるようになっているのだ。そう、前半の二重過程説の話は、後半の脳は無意識で予測を行なっているという予測脳の話をするための準備だったのだ。しかも、これまで関連論文をいくら読んでもあまりピンと来なかった予測脳関連の用語がスッキリと説明されていて、この本を読んで本当に助かったと思った。この本の説明はあまりに分かりやすくて素人はあっさりと読み進めてしまうだろうが、私のような認知科学オタクはあっさりとされてる説明が実は奥深いのに気づいてしまうので、ただただ感嘆するしかない。本物ほど知識をひけらかしたりはしないものなのだ。
第三部とエピローグは第二部でした予測脳を社会性に応用した話だが、さすがにこの辺りは今読むと物足りない。しかし、これは利他性研究や(特に無意識の偏見を扱った)社会的認知研究が本格的に注目されるようになったのがこの本の原著が出版された後なので仕方ない。むしろこの段階でこうした社会性のテーマに触れている事自体が先見の明だとも言える。十年以上前に出た本なので今となっては足りない所があってもむしろ当然だが、逆に言えばにも関わらず今でも読む価値のある本である事自体が奇跡的なことだ。

心をつくる―脳が生みだす心の世界

心をつくる―脳が生みだす心の世界