フリス「心をつくる」によってpredictive codingについてのモヤモヤをなくす

前回紹介した「心をつくる―脳が生みだす心の世界」は本当に今になって読んでよかったと思っている。これを読んでpredictive codingに関して感じていたモヤモヤがなくなってきた。それをいくつか挙げよう。
前々回に紹介した「予測的符号化・内受容感覚・感情」は良い論文だが、どうしても違和感があったところがあった。それはpredictive codingを説明するところでヘルムホルツの無意識的推論について言及しているところだが、これはなんか違うと思っていた。これはこの本を読んだらスッキリと解消されて、ヘルムホルツの無意識的推論は前半の二重過程説で扱われていて、後半の予測脳の話では同じヘルムホルツでも不安定な網膜像にも関わらず安定した世界を知覚できるのはなぜか?という疑問の方が取り上げられていた。私もこれが妥当な扱いだと思う。実は私が違和感を感じた理由はヘルムホルツの無意識的推論というとリチャード・グレゴリーのインテリジェント・アイを思い出すからだが、著者のフリスは若い頃にリチャード・グレゴリの授業を受けたことあるようだ。
哲学者アンディ・クラークは私がpredictive codingを知るきっかけを与えてくれた点では感謝するが、彼のpredictive codingの扱いはその理解にむしろ障害をなってしまう。その理由はアンディ・クラークがpredictive codingを身体化論を結びつけているせいだが、ここには違和感しか感じない。上で取り上げたヘルムホルツの謎を見れば分かるように、predictive codingには網膜像(二次元)から世界(三次元)を推測するという考え方がある。身体化論の源の一人である心理学者ギブソンはこうした間接的な知覚理論を批判して直接知覚説を主張した。アンディ・クラークがpredictive codingを取り上げて有名になった論文「Whatever next? predictive brain, situaed agents, the future of cognitive science」にクリス・フリスは連名でコメントを書いているが、そこでフリスはこの本「心をつくる」を挙げて、predictive codingの非直接的な知覚理論はクラークの身体化論的な直接説と矛盾するのでは?と指摘している。私もそう思うし、それどころか身体化論はpredictive codingの理解を妨げる可能性さえ高い(少なくとも自分は困った)。
アンディ・クラークのこの論文が障害になるもう一つの面は、彼がpredictive codingを心についての統一理論(普遍理論)だと称しているところだ。そこまで言い切られているところも私がpredictive codingに関心をもった原因でもあるので皮肉なのだが、これも私のpredictive codingへの理解を明らかに妨げた。アンディ・クラークのpredictive coding論文が出たのと同じ年に同じ雑誌で言語の産出と理解をpredictive codingから統一的に理解しようとした「An integrated theory of language production and comprehension」という論文が出たのだが、ここにGregory Hichokによるこの論文へのコメントが載っている。ここでpredictive codingの源を探ってこれは元々感覚運動の理論であることを指摘して、それを言語に安易に応用する事を批判している。アンディ・クラークは言語については特に触れていないが、この指摘は核心を突いている。フリスの本「心をつくる」を読んでも出てくる例は感覚運動の例を超えていない。この本では社会性についても論じてはいるが、それは示唆にとどまっている。フリスの本に取り上げられていない例を挙げるにしても、Gregory Hichokが挙げるのはプライミングトップダウン効果(または文脈効果)であるが、これだけでは言語にはたどり着いていない(プライミングは記憶理論なので一見すると例外に見えるが知覚からの想起に関わるので一概にそうは言えない)。私の見解では、predictive codingは射程の広い理論かもしれないが、心についての統一理論だの普遍理論だの称するのは昔のコネクショニズム・ブームの二の舞にしかならないと思っている。堅実に様々な経験的研究と関連付けることでその射程を広げることはできると思うが、それ以上の過剰な(思弁的)期待は益するところが少ない気がする。むしろ大風呂敷を広げすぎない方がベイジアンとの関係も見えやすくなるので、その側面からも利点がある。
私の印象では、predictive codingは心についての統一理論(普遍理論)そのものというよりも、心についての統一理論(普遍理論)へと向かうための重要な段階だと思う。階段を一気に上がれるかもしれないという思弁的な妄想に浸るよりも、確実に階段を上がっていくための経験的な道を歩むほうが私には好ましく見える。