人工知能ブームに乗った漫画から考えた
最近になって人工知能を扱った漫画は増えているが、この前はキンドルで「バディドッグ」が無料で試し読みできたので読んでみた。(残念ながら?)人工知能を扱った漫画の多くは現実の人工知能の進展とは無関係な純粋なSF的設定であることが多く、単なるフィクション(虚構)以上でも以下でもなく、認知科学オタクの私が述べるべきことは何もない。そんな中でもロボット開発を扱った漫画「アイアンバディ(1) (モーニング KC)」は有名な科学技術ジャーナリストが監修に関わっていたせいか、第一巻を読んだときはロボット(人工知能)についての設定がリアルなせいもあって夢中になり、ケチな私には珍しくその第二巻を有料で手に入れた。しかし、第二巻の半ば辺りから人工知能に関しての設定のリアリティーが失われてしまって(人工知能の能力が過剰になっていて)がっかりした覚えがある。それに対して漫画「バディドッグ (1) (ビッグコミックス)」はストーリー上の設定は、幾多もの人工知能を安易に使った漫画と違ってよく考えられてはいるが、それでもツッコミどころも多くフィクションとしての要素が強い(ストーリー上のリアリティーでは「アイアンバディ」第一巻には所詮およばない)。ただ私が驚いたのは、その漫画に描かれている人工知能についての知識が正確で現実的だったことだ。特にクラウドと結びつけた話はなかなか出てこない話題なので感心してしまった。その人工知能に関する知識が正確な「バディドッグ」の中でも人工知能の強いと汎用が同じに扱われているのだが、これは作者の責任ではなく日本で人工知能について語る論者の知識が微妙に怪しいせいなので仕方ない所はある。
この辺りの話題については前回の記事を出した後も考えるのだが、(残念ながら学者も含めて)知識の怪しい論者が堂々とそれについて語る日本の問題は脇に置いても、前回に述べた理由の他にも人工知能について強い/弱いの対と広い/狭いの対がごっちゃになっているせいではないかと思われる。人工知能について汎用/特化の対は広い/狭いの対とはかなり一致するのだが、強い/弱いの対とはあまり一致しない。能力の汎用性の範囲が(程度の差はあれ)人間並みか人間を超えるのかの違いは端に寄せておくにして、まず汎用人工知能が可能であったと仮定して、その汎用人工知能が心を持っているかはそれ自体が議論の余地がある。つまり汎用人工知能であるにも関わらずそれが弱い人工知能である(心を持っていない)という想定は可能だ。もっとあっさり言い切ってしまうと、人工知能において強い/弱いの対は哲学的な問なのに対して、広い/狭い(汎用/特化)の対は工学的な問と関わりを持っている。更に言い切ってしまうと、強い/弱いの対は1980年代辺りの昔の人工知能ブームでの話題であって、最近の人工知能ブームではあまり中心的な位置にはない。
人工知能については日本では意識や自我もよく話題に上がっているが、意識についても行動主義のようにそもそも意識の存在を認めない立場もある(根本的に反駁されたわけではない)し、自我に至ってはどう定義すればいいのか私にはよく分からないしそもそも(認知科学オタクの私でさえ)そういう議論を見たことがない。日本での人工知能の話は安易に人とのメタファーに頼りすぎではないだろうか?