拡張された心はどこに行くのか?
二十一世紀に入ってからの身体化論(流行りの言い方だと4e認知(embedded, extended, embodied, enactive))は、二十世紀までの古典的な身体化論に比べるとオリジナルな議論は少なくて、二十世紀までに出てきたのと同じテーマを繰り返し論じている傾向が強い。それらの議論がどこまで深められているかは怪しくもあるが、ここではその中から議論に興味深い展開がありながらも割に日本ではまだあまり知られていない拡張された心(extended mind)を紹介したい。これから紹介する内容の基本的な流れは「From folk psychology to cognitive ontology」の第四章第三節を元にして構成していますので、源泉となる参照文献はこちらにあるものを見てください。関連する日本語の文献としては「頭の外で考えることはできるのか」や「拡張されたシステム」があるので参考にしてください。
拡張された心(extended mind)とは何か
拡張された心(extended mind)はClark&Chalmersによって知られるようになったが、その論文でのインガとオットーの話は有名で(既にリンクした論文を含み)このテーマを扱った文献ならどれでも大抵説明されているので、ここでは省略する。簡単に説明すると、拡張された心は心の哲学における機能主義を前提にして議論が進む。心の哲学における機能主義とは(各種の違いを無視すれば)心的な状態(過程)とは機能であるとする立場である。Clarkらの論文で取り上げられている例は記憶である。つまり何を覚えておいて思い出すというのは機能であり、それによって心的な状態が特定される。この場合は人の頭の中で覚えておいて思い出す例だが、同じ機能は人の頭の中でなくとも実行できる。つまり、覚えたいことをノートにメモしてその項目を見ても、同じ機能が実現できる。記憶という機能は人の頭の中だけでなく、身体を超えた環境においても実現可能である。覚えて思い出すという心的状態は頭の中だけ起こるのではなく、外部のノートにおいても起こるのである。心的な過程は頭の中でも身体の外の環境でも同等に起こっているとするのが、拡張された心の基本的な主張だ。
結合と構成との取り違い(coupling-constitution fallacy)
こうした拡張された心の議論はよくできている。しかし、明らかに私達の直観には反している。外部にあるノートが私の心の一部でもある…と考えるのは普通に考えると変だ。そうした直観的な違和感を拡張された心への批判として成立させているのが、Adam&Aizawaによる「結合と構成との取り違い」による批判だ。つまり、身体の外部にあるノートは認知システムと結び付けられているだけであって、認知システムを構成しているわけではない。拡張された心では心に境界がないことになってしまうが、Adam&Aizawaは認知システムには境界があると主張する。認知システムには認知の標(mark of the cogniton)があるのであって、それによって認知システムの境界が定まるのだ(大抵は脳や身体が境界と考えられる)。ただし、何が認知の標かは議論に余地があって、そこが突っ込みどころになっていなくもない。
埋め込まれた認知の仮説(hypothesis of embedded cogntion)
Rupertは拡張された心に対して異なる方面から攻撃している。身体化論には拡張(extended)の概念だけでなく、埋め込み(embeded)という概念もある。認知は環境に埋め込まれているのであって、環境が認知システムを構成しているのではない。埋め込まれた認知の長所は、認知の境界を定めながらも、心にとっての環境の重要性も認めていることだ。つまり、拡張された心を採用せずとも、道具使用も認知科学における生態学的アプローチや状況的認知も認めることができる。拡張された心で救えることは、埋め込まれた心でもほぼ救うことができる。ならば、直観に反する拡張された心をわざわざ採用する理由はなくなるはずだ。
Rupertの言っていることはもっともであり、私も埋め込まれた認知で十分だとは思う。しかし、なぜか拡張された心の擁護者は絶えない。ある論者が(Adam&Aizawaはまだしも)Rupertまでを内在主義者呼ばわりして批判しているのには驚いた。拡張された心の擁護者が絶えない理由は私にはよく分からないが、拡張された心が反駁しがたい理由は確かにある。
心の極端(radical)な拡張は避けられない
Sprevakは心の哲学で主流である機能主義を採用している限り、拡張された心は避けられないどころか、もっと極端な拡張された説さえ導けるとしている。なぜなら、機能主義においては多重実現可能性が前提とされているので、どんな素材からできていようと機能を満たしてさえいれば心を持っていることになってしまう。よく出る例では、それが有機物からできていようがシリコンからできていようが機能を満たせば心を持っていると言える。機能主義には有機的な脳に境界を定める理由が含まれていない。心を脳に境界付けるのはその論者による勝手な想定でしかない。シリコン製のアンドロイドに心があると考えられるなら、自分が使っているコンピューターを心的過程の一部に含めることも不自然ではないはずだ。つまり、機能主義が有機体にも無機体にも心を認めるぐらい目の粗い(coarse-grained)ものである限り、心を環境にまで広げる拡張は避けられない。結局のところ機能主義を前提としている限り、心が身体を超えた環境にまで伸びているかどうかは、結局の所それを信じるか信じないかという直観同士の争いにしかならないのだ。
機能主義の問題を考え直す
拡張された心というのは心の哲学における機能主義に再考を迫っている。機能主義への批判として有名なのはクオリア(または現象的意識)についての議論であり、これについては今でも盛んに議論されている。ただ勘違いされているところもあるが、クオリア論は機能主義を根底から批判しているというよりも、その前提となっている物理主義を批判しているとするのが正しい。よって、機能主義にクオリアを認めるようなオプションを認めるかどうかが問題であり、その極端な形が汎心論であると言える。そして、一時は機能主義への批判として熱心に論じられていたもう一つの話題は人工知能は心を持つか?である。ただこれについては以前ほどには論じられているようには思われない。おそらく、人工知能が心を持つという考えに以前ほど反感が持たれなくなったのが原因かもしれない。しかし、Sprevakが指摘するようにシリコン製の脳に心を認めることは心の環境への(極端な)拡張へとつながっている。そして、前者は認めるけど後者は認めないというのは困難であり、ただのご都合主義でしかない。とはいえ、拡張された心を単に認めるだけなのも(議論としては機能主義を認めるだけで済む)安易な道である。
別に視点から見てみると、心(または認知)に*1境界を認めないことの問題も浮かび上がってくる。最近の身体化論者はエナクション(enaction)を好む論者はとても多い。エナクションの概念はヴァレラによって有名になったが、それ以前にそのヴァレラはオートポイエーシスの概念でも知られていた。オートポイエーシスとエナクションとの関係は必ずしも明らかではない*2が、少なくともオートポイエーシスでは境界が重要な役割を果たしている。では、拡張した心を認める人はエナクションにも境界は必要ないとしているのだろうか?埋め込まれた心でもエナクションを論じるには十分ではないのか?と不思議に思われる。ただ、これを認めても心(認知)の境界についての問題(認知の標)はまるまる残る。機能主義だけではこうした疑問には答えられないので、新たな別のオプションが必要となる。おそらくそれはオートポイエーシスのような概念になるだろうが、当のオートポイエーシスそのものは(少数の論者に好まれてはいるが)もはや科学的に(おそらく哲学的にも)耐えられる概念とは残念ながら(心に関する議論としては)なっていない*3。
拡張された心は、それ自体が擁護されるべきというよりも、(Sprevakの述べるように)さらなる心の理論のための新たな議論にとってこそ価値のあるものであるべきなのだ。
*1:論者の中には心には境界はないかもしれないが認知には境界があるとする用法をする人もいるが、必ずしも広くは認められていない
*2:ヴァレラの単著論文「Patterns of life」を見るとヴァレラは境界を認めているような気もするが正直よく分からない
*3:ただし生化学的なレベルはその限りではないかもしれない